【本文】


未来世界を哲学する―環境と資源・エネルギーの哲学)
未来世界を哲学する
環境と資源・エネルギーの哲学


〈自己完結社会〉の成立(上)
上柿崇英著


〈自己完結社会〉の成立(下)
上柿崇英著

環境哲学と人間学の架橋(上柿崇英 
/尾関周二編)
環境哲学と人間学の架橋
上柿崇英/尾関周二編


研究会誌『現代人間学・
人間存在論研究』

   

『〈自己完結社会〉の成立』(下巻)
【第九章】〈自己完結社会〉の成立と〈生活世界〉の構造転換


(5)「情報世界」の台頭と〈漂流人〉の出現


 続いて見ていく「第四期」は、日本経済が低迷していくなかで、世界的な情報化とグローバル化が進展した期間(1995年‐2010年)である。そしてそれは2020年基準で言えば、若年世代にとっては両親の時代、そして多くの人々にとっては自らの“過去”として記憶している時代でもあるだろう。

 その時代の外観は概ね次のようになる。まずそれは、日本社会がこれまでの社会モデルを立て直していくことから始まった(122)。繁栄と成長の時代が終焉したことは誰の目にも明らかとなり、ポスト「五五年体制」のための政治改革(123)、そして「小さな政府」、「民間活力」、「規制緩和」などを謳った「構造改革」が進められていった(124)。
 急速に普及していく情報技術は、労働、流通、消費、産業、コミュニケーションなど、社会のあらゆる局面を激変させていくことになる。世界ではグローバル化によって、人、モノ、カネが海を越えて行き交うようになり(125)、同時に無差別テロという新たな脅威が出現するようになっていた(126)。「リーマン・ショック」もまた、膨張するマネーが実体経済を破壊する脅威となることを印象づけた事件であった(127)。
 そうしたなかで、日本社会は未だ暗雲に包まれていた。一定の経済的再建は図られたものの、産業は空洞化し、企業福祉の切り詰めや非正規雇用の拡大が再び社会に格差をもたらすようになっていた(128)。少子高齢化の進行は社会保障費の増大に拍車をかけ(129)、結局慢性的な財政赤字があてもなく積み重ねられていった(130)。
 現在へとつながる不透明な時代は、このようにして始まったのである。

 思想史的な文脈から見れば、「第四期」は総じて「変化と不安の時代」であった。繁栄によって覆い隠されてきたさまざまな矛盾が噴出していくなかで、社会には変化が求められていた。暗い時代にもかかわらず、変化の機運は人々をどこか活気づけてもいただろう。しかし誰もが先を見通せないなかで、人々は底知れぬ不安をも抱えていたのである。

 この時代の代表的な思想のひとつは、新自由主義批判であった。
 市場の機能を重視し、国家の介入を最小限とすることを掲げる新自由主義は、このときすでに世界的な流行となっていた(131)。国際社会においても、多国籍企業や投資ファンドが勃興していくなかで、市場原理があたかも「正義」や「倫理」のごとくにもてはやされていた(132)。
 とはいえその試みが、結局は富裕層や大企業からなるグローバル資本にますます富を集中させること、そして人間社会をますます市場の付属物に成りさがらせることになると主張したのが、新自由主義批判である(133)。
 彼らは世界的な自由貿易化を批判しつつ、それと同じ論理によって、国内の「構造改革」にも批判の矛先を向けていた。彼らにとって、国内で進められている行政サービスの縮小化や弱者の切り捨ては、世界を覆い尽くすあの新たな「帝国主義(134)」と深く連動したものとして理解されていた。
 そこでは、効率、成果、競争、自己責任が強調される傍らで、あらゆる人間社会の基礎構造が、資本の論理によって組み替えられていくとして批判されていたのである(135)。

 こうして“市場”への嫌悪が高まるなかで、人々が活路を見いだしたのは新たな連帯の可能性であった。この時代、国際的に活躍するNGOが脚光を浴び、国内ではボランティア団体やNPOの存在が注目されていた。
 そして彼らがそこに見いだしたのは、情報技術を駆使して意識を共有した人々が、国家行政とも営利企業とも異なる形で、自発的に問題解決に取り組んでいく姿であった。
 【第八章】でも見てきたように、彼らはそうした、行政的世界からも、市場的世界からも独立したアソシエーションのネットワークのことを、「公共性(圏)」とも、「新しい市民社会」とも呼んだ。そしてそこに新たなガバナンスの姿さえ期待したのである(136)。
 こうした「アソシエーション論」は、「ポストモダン論」に押されがちだった「第二次マルクス主義」を再び活気づけ、〈自立した個人〉の思想に新たな息吹を提供することになった。このとき彼らの脳裏にあったのは、「第二期」に規定されたあの“連帯する市民”の再来であるとともに、「第三期」に「自由な個性」と共同性の止揚として語られた人間的理想が具現化していく姿でもあったのである。
 いずれにしても、こうした文脈をも背景として、このとき「緩やかなつながり」や「開かれたコミュニティ」などが盛んに語られることになった(137)。それらは当時、人々に“もうひとつの社会”を連想させるだけの十分な力を持っていたのである。

 そうしたなかで、「第四期」には「虚構の時代」に動揺する大人たちの姿を見て育った、新しい世代が出現していた。彼らが年長世代から受け取ったのは、「繁栄や享楽とは異なる新たな幸福の形を希求せよ」というメッセージである。
 すぐに捨てられる新製品よりも、使い込むことができる素朴な道具の方が良い。効率化された人工的な生活よりも、自然のリズムに寄り添った生活の方が良い。何かを多く所有することよりも、心が豊かに満たされていることの方が良い。そして人生に真に価値あるものとは、平凡で、何気のない、日常のほんのひとときのなかにこそある。
 要するにこうした「自然への回帰(138)」、「生活への回帰(139)」、それこそが、ここでは時代の先端を行くひとつの思想となっていたのである。

 そして新たな世代が受け継いだのは、何よりも「かけがえのない個人」「自由な個性」とをめぐる思想であった。「存在論的抑圧」からの解放、「自由な個性の全面的な展開」こそが人生の果実だと教えられてきた人々にとって(140)、社会が定めた“レール”や“建前”ほど馬鹿げたものはなく、組織の歯車となって生きることほど空しく思えるものはなかった。
 人は誰しも平等に、また無条件に尊重されるべき存在であって、自分だけの“夢”を見つけ、好みや才能を生かした天職に出会うこと、そしていかなるときも自分らしくいられること、それこそが何よりの理想だと考えられた。誰もが「世界に一つだけの花(141)」であるところの「本当の自分」を求めた時代(142)、それはまさしく「自己実現」という言葉が最も花開いた時代だったと言えるだろう(143)。

 ところがこうした社会にあって、多くの人々が同時に底知れぬ不安にも苛まれていた。それは前述したように、変わりゆく時代が、同時に不透明なものだったからでもあるだろう。縮小するセーフティーネットや拡大する格差のように、このとき確かに人々の抱える経済的リスクは増大していた。
 しかしここでの“不安”がそれにとどまらなかったのは、それが何よりも“存在不安”という形において語られてきた側面があったからである。とりわけ「第四期」の後半になると、少なくない人々が自身の“居場所”をめぐって苦しみ、「承認不安」とも呼べる事態に直面するようになっていた(144)。
 秋葉原で無差別殺傷事件を引き起こした犯人が、上辺ばかりがはびこる世界で、自身が誰からも見られていないことをその動機として語ったことは、人々に衝撃を与えただろう(145)。新時代に語られた理想の多くは、このときすでに色褪せつつあった。そしてその跡地には、「諦め」という、広大で、不毛で、とりとめのない心の荒野だけが残されることになるのである。

 さて、こうした時代を背景として、「第四期」における〈生活世界〉の実態とはいかなるものであったのだろうか。明確に言えることは、この時代に〈生活世界〉の構造転換が着実に進行していったということである。
 例えばこの時代、かつての〈郊外〉的な「カイシャ」と「カゾク」の枠組みは、すでに過去のものになりつつあった。企業福祉の縮小と雇用の流動化が進められていくなかで、「カイシャ」は〈共同〉の場というよりも、純粋な営利組織としての側面を先鋭化させていた。男性ひとりで家族全員を扶養することが困難となり、女性の社会進出が大幅に進んだ結果、従来の性別役割分担の合理性もまた急速に失われていった(146)。
 しかしそうしたことによって、男性も女性も等しく独立した〈ユーザー〉となって生きていく時代が、まさに幕を開けることになったのである(147)。

 そして、この時代に“情報技術”が確立したことは、まさしく〈生活世界〉を激変させる契機となった(148)。その意味を理解するためには、例えばこの瞬間にインターネットが消滅することを仮定してみれば良い。
 現代人にとって、それはおそらく蛇口から水が出ないことに匹敵する事態だろう。しかし「第四期」以前の時代においては、われわれは事実そうした世界を普通に生きていた。そしてそこに何の不都合もなかったのである。
 人々は当時、モノが欲しければ街へとくりだし、何かを調べたければ図書館や書店へと足を運んだ。そしてそこでは誰かと対面して会話をすることこそが、最も身近な娯楽であるとともに、最も手軽な情報収集の手段でもあったのである(149)。
 インターネットが解体させたのは、まさしくそうした前提であった。そこでは“検索”という新たな行為が生まれ、空間を越えた“出会い”が半ば無限に可能となった。電話をかけることは特別なこととなり、ましてや直接誰かを訪ねるためには特別な理由が必要となった。
 それは「情報世界」という名の、〈社会的装置〉の“第三の歯車”が誕生した瞬間だったのである。

 加えてこの時代、「第三期」の〈郊外〉的なものが、宅地を越えて全社会的に拡大していった。その象徴となったのは、この時期全国に建設された巨大ショッピングモールだろう。
 昔ながらの商店街は、その巨大な人工物の塊――郊外の広大な敷地に突如として出現したそれは、あらゆる商品と娯楽施設とを搭載した城塞のごときものであった――によってますます衰退していった。
 しかしこうした土地から浮遊する人工世界が拡充すればするほどに、ひとりひとりの〈ユーザー〉にとっては、ますます「自由」が拡大するのである。そして人々には均等に機会が与えられ、抽象的な〈ユーザー〉という形でますます「平等」が拡大していくことになる。
 いまや人々にとって、“住む”とは、この網の目のように張り巡らされた人工世界のなかで、〈社会的装置〉にぶら下がる自身の身体をどこに配置するのかということでしかなかった。実際「情報世界」を通じて無限に“つながる”ことが可能な時代に、たまたま身体の配置が隣接したからといって、なぜその人と関わりを持たなければならないのか。
 ここには〈共同〉していく必然性以前に、そもそも関係性を築いていく必然性がない。ここにおいて“地域社会”という枠組みは、完全にその実質的な意味を失ったと言えるだろう(150)。

 ここで考えてみたいのは、こうした時代に少なくない人々が抱えていた、あの“存在不安”とは何だったのかということについてである。最初の手がかりとなるのは、「第三期」の人々がそうであったように、「第四期」の人々もまた、理想と現実のなかで分裂していたということだろう。

 例えば新世代の人々は「自然への回帰」や「生活への回帰」を求めていたが、その理想の先にあったのは、「虚構」にまみれた「〈ユーザー〉としての生」を批判し、〈社会的装置〉に極力依存しないような生き方でもあった。
 彼らが「生きる実感」、「自給自足」、「人と人との絆」を口にするとき、そこで賛美されていたのは、皮肉にも「第三期」までの人々があれほど嫌悪した“昔ながらの暮らし”だったのである。しかしそれゆえ、そうした人々の多くは、一度は挫折を経なければならなかった(151)。
 彼らは〈社会的装置〉から“降りる”ためにはよほどの意志がなければならないこと、そして一番手軽な方法は、健康で裕福な人間が、それを“サービス”として購入することであるという逆説を知った。加えて何より、彼らは自由と自発性のもとで〈生活世界〉を実現しようと試みて、現実に求められる〈共同〉の負担に愕然としたのである(152)。

 こうしたことは、同世代の人々が求めた「自己実現」についても同様であった。「本当の自分」、「純粋な自分」を求めた人々にとって、「かけがえのない個人」は、いまや「自己実現」して然るべき「かけがえのないこの私となっていた。
 しかし彼らが現実に目撃したのは、「就職氷河期」の渦中にあって自身を拒絶する社会の姿、そしてあれほど憧れたフリーな生き方が「ワーキングプア」へと転落し、夢追い人が「派遣切り」や「ブラック企業」などによって食い潰されていく姿でもあったからである(153)。
 だが、おそらく彼らはここで必ずしも“自己責任”ゆえに苦しんだのではなかった。そうではなくて、〈自立した個人〉として生きようとして、“自己責任”のもとで成功するはずだった「自己実現」に失敗したからこそ、おそらく彼らは苦しんだのである(154)。

 とはいえ、この世代に生じた理想と現実の乖離は、実際にはより根源的な部分において生じたものではなかったか。それはこうした人々が、一方では「かけがえのないこの私」をあれほど信奉しておきながら、他方では「自己実現」の舞台となるはずの人間社会を、それどころか「自己実現」の当事者たる自分自身でさえも、根本的には信頼していなかったように見えるからである(155)。
 言ってみれば彼らは、現実によって裏切られる以前に、心の奥底において、それが無残に打ち砕かれるだろうことをどこかはじめから予感していた。つまり理想が求める自己存在への過剰な期待と、それに対する根源的な不信感、あるいは裏腹の自己肯定感の低さゆえの歪な「諦め」の感情によって、彼らは最初から引き裂かれていた (156)。
 そしてそれこそが、おそらくこの時代の“不安”の根底にあるものだったのである。

 ではなぜ「第四期」の人々は、こうした「諦め」の感情にこれほど囚われなければならなかったのだろうか。おそらくその手がかりは、彼らの多くが〈郊外〉に生まれ、〈郊外〉的なものに囲まれて育った人間であった、ということにある。
 彼らが生まれ育った世界の風景、それは前述のように〈存在の連なり〉から浮遊し、美しく無毒化され、コンセプト化され、パッケージ化された世界であった(157)。
 そこには臭くて汚い生物存在としての生身の〈生〉も、「集団的〈生存〉」の実現をめぐって求められる毒々しい〈生〉の姿も存在しない。彼らにとってリアルな世界とは、せいぜい人工世界に配置された自宅と職場(学校)、そして無数の商品とケータイ、PCの画面であって、その外部にはどこまでも果てしのない虚無が広がっている。
 彼らはかつて、宮台真司が「仲間以外は皆風景」、「島宇宙」と呼んだ人々が成長した姿でもあった(158)。そこでは人々を広く背後で結びつけてきた“世間”の力学も、そして多様な立場や距離間を制御してきた従来の〈間柄〉も、意味あるものとしては現前しない(159)。言ってみれば無数に点在する仲間内だけが、そこでは意味のあるものとなるのである。

 それゆえ彼らは、自身のいまある〈生〉の先に「意味のある過去」も「意味のある歴史」も見いだすことなく、また多くは〈共同〉を引き受ける大人たちの姿を目撃することもなく成長していく。
 そうした人々の内面に〈役割〉の概念が、あるいは「担い手としての生」を引き受けようとする動機が芽生えるはずもないだろう。決して「意味のあるもの」として現前することなく、「この私」を拒むかのような人間社会を、彼らが〈信頼〉できるはずもない(160)。
 そして無数の信頼できないもの、「意味のないもの」に囲まれて、どうして「自己への〈信頼〉」を――すなわち「意のままにならない」世界のなかで、自身の〈生〉を誇りあるものとして肯定していくことが――実現できると言うのだろうか(161)。

 こうして“温室育ち”の〈ユーザー〉たちは、生きることの残酷さに直面してすぐに傷ついてしまう。自意識だけを肥大化させ、「この私」をめぐる浮遊した理想にばかり縋ってしまう(162)。
 しかし彼らは、同時にそれが張りぼてに過ぎないことを良く知っているので、自己存在に底知れぬ不安を抱えることになるのである(163)。そしてその不安を解消しようとして、彼らは他者からの“承認”をひたすら求めてしまう。
 しかし彼らが渇望するのは「この私」の無条件の承認であるために、その試みは結局挫折を余儀なくされるだろう(164)。そうして彼らは「誰も本当の自分を分かってくれない」といって、虚無に似た「諦め」にどっぷりと浸りつつ、その感情を誰に向けるでもなく「情報世界」へと流出させていく。それでもその純潔な心は、いまでもここではないどこかを密かに夢見てもいるのである(165)。

 さて、本書では、これまで見てきた〈郊外〉生まれの人々を指して〈漂流人〉と呼ぶことにしよう。かつての〈旅人〉たちが、〈故郷〉という名の「母港」を後に大いなる「目的地」へとこぎ出した船だとするなら、〈漂流人〉は、はじめから帰るべき「母港」も、向かうべき「目的地」も、あるいは自身の立ち位置を確認するための「羅針盤」さえも失った漂泊船のようである(166)。
 想像してもらいたい。目の前には、どこまでも広がるどす黒い人工物の波と、彷徨い続ける自分自身の船だけがある。水面の奥底に何があるのかは分からない。この水平線の先に何があるのかも分からない。自身がなぜここにいて、なぜ船がこうして浮かんでいられるのかさえも分からない。「どこに行っても良い」と言われても、行くべき場所がなければ、どこかに行くべき理由もない。そうした漂泊船が、いわば水面のあちらこちらに浮かんでいるのである。
 「かけがえのないこの私」など、虚無のなかに聳え立つ蜃気楼のようなものではないか。彼らが「無気力」、「無関心」、「卑下」、そして「諦め」という病に苛まれているとするなら、それは彼らが〈存在の連なり〉との接続を絶たれ、〈存在の強度〉を著しく欠いているからだと言えるのである。

 思えばこうした人々は、最初から〈ユーザー〉となって生きることを宿命づけられた人々でもあった。そしておそらく彼らこそが、〈関係性の病理〉〈生の混乱〉に直面した最初の世代の人々であったと言える。
 〈故郷〉を捨てて〈郊外〉に定住したかつての〈旅人〉たちは、結果として、〈存在の連なり〉のもとで人が生きることの意味、そして「〈共同〉のための意味」「〈共同〉のための技能」を次世代に伝えることはなかった。
 それゆえ、彼らの子どもたちは期せずして〈漂流人〉となった。〈漂流人〉は、〈役割〉を知らないし、〈信頼〉を築くことができない。そしていざ「〈共同〉のための事実」が現前し、互いに互いを必要とする理由が芽生えたとしても、多くはその試みに失敗することになるのである。


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(122)バブル崩壊後に残されたひとつの課題は、証券会社や銀行が抱えた多額の不良債権であった。その額は2002年3月には43兆円にものぼったとされ、それが解決するには、2003年以降の小泉政権を待たなければならなかった。詳しくは、小峰(2019)を参照。
(123)「第四期」末には、前述したリクルート事件のほか、東京佐川急便事件(1992年)など政治家の汚職事件が相次いでいた。そしてそこから、政界内では政治改革を求める動きが活発化していくことになる。このとき改革派は、政治腐敗の原因を与党の固定化や、省庁と結びついた族議員、派閥政治の存在であると考え、それを変えるものとして小選挙区制度の導入を積極的に主張した。小選挙区制はこれまでの中選挙区制とは異なり、選挙区から1名のみが当選するため、死票は多いものの民意を集約して政権交代に結びつきやすいという特徴を持つ。つまり英国のように、二大勢力がマニフェストを掲げて競い合う政権選択選挙の体制を整えていくことこそが、一連の改革のひとつの到達点であった。そうした改革の機運のなかで、自民党は分裂し、その一部が日本社会党(かつての社会党左派)、民社党(かつての社会党右派)、公明党などと複雑に離合集散し、90年代初頭には小政党が乱立する事態となった。なかでも1993年には、自民党が日本新党、新生党、新党さきがけなどの新党群に敗退し、「第二期」以来の「五五年体制」が終焉する。また翌1994年には、自民党と日本社会党が新党さきがけとともに連立政権を組むという、きわめて異例な事態も出現することになった(このとき日本社会党は、長年掲げてきた自衛隊違憲論をはじめて取りさげた)。なお、政治改革が目指していた政権選択選挙が実際に機能したと言えるのは、民主党(複数の新党が融合する形で1998年に発足)が自民党を破った2009年の選挙のときだろう。詳しくは清水(2018)を参照のこと。
(124)「第三期」までのような経済成長が期待できないなかで、政治改革と同様に、経済システムにも大きな変革が求められるようになっていた。不良債権と財政赤字の問題が深刻化するなかで、その本格的な改革に取り組んだのが2003年に成立した小泉政権である。例えば新しい経済システムにおいては、郵政事業の民営化や国立大学の法人化をはじめとして、まずは中央の行政サービスを見直し、財政の引き締めが求められる。そして非効率な分野においては、民間企業の経営に学び、競争原理や成果主義を導入すること、加えて新事業を妨げる余計な慣行は、聖域なく取り除いていかなければならない。こうした考えに基づく小泉改革は、市場経済に馴染まない“日本的な制度”を解体させ、より純粋に市場原理が機能するような制度改革を行ったと言える。その意味においては、まさしく新自由主義的であった。そして後述のように、この改革が格差社会の進展に一役買ったということもまた、おそらく事実であるだろう。しかし当時の世相を振り返ってみると、「行政サービスは競争が不在であるがゆえに劣悪で非効率的である」との批判や、「横並びを重視する日本的な慣行こそが有能な人材の意欲を妨げている」との批判が全社会的に共有されていた。つまり当時は少なくない人々が、一連の改革を必要なものであると認識していたのである。なお、「第三期」以来の「ゆとり教育」が批判の対象になっていくのもこの時期からである。小泉改革については、小峰(2019)、佐和(2003)を参照のこと。
(125)人々の関わりが全地球的なものへと拡大することそのもので言えば、それは大航海時代にまで遡ることができる。20世紀末のグローバリゼーションの新しさは、情報技術によって人間相互の時間的、空間的な距離間が桁違いに狭まり、加えて冷戦の終結によって、全世界が単一の市場経済に統合されたことにあったと言える。なおG・リッツア(G. Ritzer)は、そうした動向に付随する形で、アメリカ的な価値観や生活様式――とりわけファストフードに代表される極度の効率化、合理化――が全世界に拡大していくことを強調して、それを「マクドナルド化」(McDonaldization)と呼んだ(リッツア 1999)。
(126)これまで、戦争とはもっぱら国家と国家が行うものであった。しかしこの時期、特定の国家に属さない国際テロ組織による自爆テロが相次ぎ、多くの犠牲者を出すようになっていた。「テロとの戦い」は、2001年の同時多発テロ以降に米国が打ちだしたものであったが、同年のアフガニスタン戦争、2003年のイラク戦争など、米国主導の戦争が繰り返されていくなかで――とりわけイラク戦争は国連安保理決議を経ずに遂行され、しかも攻撃の根拠となった大量破壊兵器はついに見つからなかったとされている――かえってポスト冷戦下における米国の「世界の警察」としての威信が揺らぎ、反米的な国際世論が助長された側面もあった。同時期の国際テロ組織の多くがイスラム原理主義を掲げていたことから、ここでS・P・ハンチントン(S. P. Huntington)が予言した西欧文明とイスラム文明の対立を想起した人々もいただろう(ハンチントン 1998)。なお、こうした情勢のなかで、日本は常に米国とともにあり、イラク戦争においては後方支援という形で派兵も行った。ちなみに専守防衛を謳う自衛隊は、80年代までは国外へ出ることはなかったが、1991年の湾岸戦争時――イラクによるクウェート侵攻を阻止する目的で、国連安保理決議に基づき米国を中心とする多国籍軍が組織された――に日本が経済的支援のみを行い、人的支援を行わなかったことで不評を買ったことから、海外派兵が本格的に論じられるようになった。国内では平和憲法を毀損しているとして大きな反発があったが、1992年のPKO法案の成立の背後には、そうした「国際協力」を求める国外からの圧力も存在したのである。ボニファス(2019)、長谷川/金子編(2019)も参照。
(127)サブプライム・ローンはもともと低所得者向けの住宅ローンに過ぎなかったが、このとき米国では、住宅価格が上昇し続けており、本来返済能力がない人々でさえも、購入した住宅を担保にローンを組めるという異常な事態が出現していた。しかしそれは、金融工学によって不良債権が巧みに切り刻まれ、投資家の目からリスクを隠蔽することによって成り立つ砂上の楼閣に過ぎなかった。住宅価格が下落を始めると、このシステムは瞬く間に崩壊し、2008年には投資銀行リーマン・ブラザーズが破綻、米国の旺盛な消費によって牽引されていた世界経済もまた大打撃を受けることになった。この危機によって人々が思い知らされたのは、実体経済をはるかに上回る膨大な“マネー”の恐ろしさであり、同時にそうした巨大な「虚構」のうえに成立しているわれわれの実体経済の危うさであっただろう。詳しくは小峰(2019)を参照。
(128)前述のように、小泉改革は行政サービスを縮小させ、経済システムをより純粋な市場経済へと移行させる方向性を持っていた(【注124】を参照)。それは必然的に国家と企業が担ってきたセーフティーネットを縮小させる結果となり、「第四期」の後半には、「格差社会」や、働けども貧困から抜け出せない「ワーキングプア」といった言葉が盛んに語られるようになる。とりわけ「規制緩和」の一環として行われた派遣法の改正は、数多くの非正規雇用を生みだす結果となり、「リーマン・ショック」後には、「派遣切り」や「年越し派遣村」――「派遣切り」などで住居を失った人々のためにNPOが主体となって食事を提供した――が話題となった。こうした貧困の実態については、湯浅(2008)、NHKクローズアップ現代取材班編(2010)を参照。
(129)厚生労働省(2019)によれば、1990年の段階で12%程度に過ぎなかった65歳以上の人口比率は、2010年の時点で23%にまで上昇していた。これは65歳以上を「高齢者」、15歳から64歳までを「現役世代」とすると、かつては「高齢者」1人を「現役世代」5.8人で支えていたものが、わずか20年で2.8人で支えなければならなくなったことを意味していた(なお2018年現在、高齢化比率は28%前後、2050年には38%にまで上昇すると推計されており、これは「高齢者」1人をそれぞれ2.1人、1.4人の「現役世代」で支えなければならないということを意味している)。
(130)日本の国家財政はバブル期にいったん健全化へと向かったが、バブル崩壊以降は年々悪化をたどっている。小泉政権が取り組んだのもこの赤字財政の問題であったが、その試みは「リーマン・ショック」によって結局頓挫していた。財務省(2019)の資料から一般会計の税収/歳出を見てみると、税収のピークであった1990年度には60.1/69.3兆円だったものが、2010年度の時点で42.3/95.3兆円となり、累積した公債もまた636兆円に達していた(なお2018年度は60.4/99.0兆円と、税収は上昇しているものの、累積公債はすでに874兆円に達している)。
(131)新自由主義政策は、80年代に米国のレーガン政権、英国のサッチャー政権が先駆けて行ったことでよく知られている。両国はいずれも深刻な財政赤字を抱えており、一連の政策は従来のケインズ主義に代わるものとして注目されていた。代表的な論者はM・フリードマン(M. Friedman)とされるが、その主張のなかには、例えば規制緩和などによる市場原理の有効活用のほか、社会保障の削減や富裕層への減税が経済を刺激し、パイ全体が増大することで結果的に全員が豊かになる、それどころか国家の介入は全体主義に通じており、国家の介入を最小限にすることこそが真に自由な社会を実現する、といった多様な観点が含まれていた。服部(2013)、ハーヴェイ(2007)を参照。
(132)この時代、米国を中心とした一部の国家の働きかけによって、WTOが強力に貿易自由化を推し進めたほか、世界銀行やIMFなどが、財政問題を抱えた国々に対して新自由主義的な政策を次々に輸出していった。そこでは、一連の政策こそが人々に自由と豊かさを与えるとされており、それに反対する人々は、あたかも既得権益を防衛する抵抗勢力であるかのように語られる側面さえあった。ハーヴェイ(2007)、北沢(2003)を参照。
(133)例えば服部茂幸は、新自由主義政策の逆説を、前掲のオーウェルの『1984年』に倣い、「成長とは99%の国民の賃金・所得が停滞することである。パイの増加とは1%の富裕層にパイを集中させることである。供給サイドの改善とは、家計に返済できないカネを貸して、支出させることである」(服部 2013:167)と述べている。またD・ハーヴェイ(D. Harvey)は、国際的な市場の開放や新自由主義政策の採用が、かえって他国に対する経済的な従属を深め、新たな利権構造を創出していると指摘し、さらには新自由主義そのものが、経済的エリートや社会上層部の権力回復のためのプログラムに過ぎないとさえ主張している(ハーヴェイ 2007)。
(134)A・ネグリ(A. Negri)とM・ハート(M. Hardt)は、グローバル資本の体系を脱国家化したひとつの権力装置として捉え、それを〈帝国〉(empire)と呼んだ(ネグリ/ハート 2003)。そしてそれに抵抗する人々の世界的なネットワークのことをマルチチュード(multitude)と呼び、同時代をこの両者が形作る新たな階級闘争という形で論じた。実際「第四期」には、経済的グローバル化に対する世界的な反対運動が生じており、その様子はATTAC編(2001)やフィッシャー/ポニア編(2003)のなかにも見ることができる。
(135)この時代の新自由主義の批判者たちには、しばしば差別問題から教育改革に至るまで、あらゆる問題を新自由主義と関連づけて理解しようとする風潮があった。例えば斎藤(2004)を参照。
(136)一連の議論は【第八章】でも詳しく見たが、例えば「新しい市民社会」とは、ブルジョア社会としての市民社会とは一線を画す概念であり、言論空間としての「公共圏」を内包しつつ、権力を監視し、国家行政からも市場経済からも独立する形で社会的サービスを提供し、さらには「コミュニティ」を媒介していく潜在力をも秘めた、アソシエーションネットワークとして想起されるもののことを指している。【第八章:注4注24】も参照のこと。
(137)【第八章:注26】でも触れたように、この時代にローカルな人々の絆を回復させようとする試みが、「共同体」ではなく「コミュニティ」として語られたことは非常に示唆的である。両者は本来同じ“community”の訳語であり、「共同体」が長年「自由な個性」を抑圧するものとしての「むら」の象徴とされてきたために、ここでは別の呼び方が必要となったのである。ここには隠された思想的な含意があるのであり、例えばわれわれが「緩やかなつながり」や「開かれたコミュニティ」を語ろうとするとき――後者にいたっては、概念そのものが本質的な矛盾を抱えているのであるが――そこでは暗に「共同体」=「むら」が否定され、自由な個人からなる自発的な連帯という「アソシエーション」のモデルが無意識のうちに導入されている側面があるのである。なお、そこに内在する「人間モデル」の矛盾を明確に指摘したのが増田敬祐(2011)であった。
(138)消費が象徴するものは、いまや自らの有能さや社会的地位ではなく、人間存在が抱える飽くなき虚飾や欲望といったものに変わっていた。こうした消費に対する罪悪感とも呼べる感情は、もしかすると筆者のように90年代に精神形成を行った人間特有のものかもしれない。とはいえ当時、あらゆるメディアが環境問題について語り、その原因として繰り返し人間の“エゴ”を糾弾していた。そうしたなかで、地球に優しく人間にも優しいといったイメージを伴いながら、昔ながらの道具や技術、有機栽培、自給自足のライフスタイルなどが積極的な意味を持って語られていたのである。
(139)辻信一は言う。「いつも私たちは急いでいる。いや、急いでいると、思い込んでいる。でも今、その思い込みを取り払ってみるとどうなるでしょう。……ゆっくりと歩く。すると道端の花の香りを嗅ぐことができる。生活のペースを落とす。すると、いままで忘れていた自分のからだをまた感じ始めるでしょう。……もし、私たちがこんなゆったりとした生き方をしていたのなら、「世界を危機から救え」と私たちが言う、その「危機」なんてそもそも起こらずにすんでいたんじゃないかしら」(辻 2004:20-21)。この時代、槇原敬之やMr.Childrenをはじめとして、多くのシンガーソングライターが何気ない日常のなかにある大切なことを主題に作品を残していた。また映画作品で言えば、松本佳奈監督の『マザーウォーター』(2010)や『東京オアシス』(2011)のなかにも、われわれはこうした感性の継承を感じ取ることができるだろう。
(140)こうした人々は、世間の一般常識よりも「自由な個性」を優先し、それゆえ昔ながらの礼儀作法や〈間柄規定〉よりも、〈関係性〉が常に「平等」であることを重視していた。「第三期」末の思想的風土を幼少期に内面化した人々にとって、こうした感覚はきわめて自然で、なおかつ理にかなうものだったのである。それはわれわれが【第七章】において、「ゼロ属性の倫理」と呼んできたものを体現しているとも言えるだろう。
(141)2002年に発表された『世界に一つだけの花』は、槇原敬之が作詞作曲を行い、アイドルグループSMAPが歌ったことから爆発的な人気を博していた。ナンバーワンになろうとしてしゃにむに競争するのではなく、そもそもひとりひとりがかけがえのない「世界にひとつだけの花」であるとのメッセージは、「第四期」の感性を恐ろしいまでに象徴するものであったと言えるだろう。
(142)「自分らしさ」を誰もが求めた時代、人々はそれを「やりたいこと」と呼び、それを見つけようとして、あるものは海外の一人旅に出かけ、またあるものは路上の芸術家となった。このとき書店では「本当の自分」に出会うための自己啓発本が溢れ、「自分探し」という言葉が流行していた(速水 2008)。例えば高橋歩の『毎日が冒険』(1997)――突然カウボーイになりたいと思い立ち、そのまま考えもなくアメリカへ渡航するところからはじまる――には、この時代の若者たちが持っていたひとつの感性の形が体現されていると言えるだろう(高橋 2001)。
(143)もっとも“自己実現”という言葉自体には、必ずしも単純な「自分探し」には還元できない響きも含まれていた。例えばA・マズロー(A. Maslow)は、衣食住や安全、社会的な居場所、人間的な尊厳が得られた後、人間に求められる最高次の欲求こそが「自己実現(self-actualization)の欲求」であるとしたが(マズロー 1987)、“自己実現”には、一人一人が自らに与えられた個性を損なうことなく、自らの人生を完成させていくという人間的理想が託されていた側面があった。また前述のトランスパーソナル心理学の立場から言えば(【注99】を参照)、“自己実現”とは、原子論的で機械論的な世界観や個体的欲望、物質主義にまみれた社会のなかで、世界があらゆる存在の連鎖によって形作られていること、そしてわれわれ自身もまたそうした大いなる全体とも言うべき「宇宙」や「いのち」の一部分に過ぎないことへの気づきによって、人間存在が再び人生の意味を取りもどしていくという含みを持っていた(岡野 1990、諸富 2009)。ここに見られる個体的自我を超越した意識感覚の問題については、確かに一面において、本書の〈自己存在〉や〈存在の連なり〉に通じる部分があるだろう。とはいえ一連の議論は、別の側面としては、人間存在における〈生存〉〈悪〉の問題を軽視し、また絶え間ない自己拡張を要請する高すぎる理想によって、かえって【第十章】で述べる〈無限の生〉へと向かってしまう可能性があったとも言える。一連の「自己実現」概念をめぐる本書の位置づけについては、【補論二】を参照のこと。
(144)ここでの「承認不安」は、おそらく「自由な個性の全面的な展開」を人生の理想として素朴に信じた人々が、理想と現実の狭間で挫折していくことを通じて生じてきたものである。次節で述べるように、これが「第四期」末の学校現場においては、子どもたちが仲間内での自己承認と同調圧力とをめぐって苦しむという新たな問題へとつながっていくのである。「承認不安」全般については斎藤(2013)を参照。
(145)土井隆義(2008)は、1969年に亡くなった高野悦子と、1999年に亡くなった南条あやという、ともに自死した女学生の日記――それらはいずれも高野(2003)、南条(2004)という形で出版されている――を比較しつつ、高野の苦しみが、世間や周囲に縛られて自身が自律した主体になりきれないことにあったのに対して、30年後の南条の苦しみは、上辺ばかりの人間関係のなかで、自身が確固たる自己確証と他者からの承認を得られないことにあったとしている。中島岳志(2011)によれば、秋葉原事件を引き起こした青年もまた、「建前」が支配する“リアル世界”に確かなものを見いだせず、“ネット掲示板”だけが「本音でつながることができる」数少ない居場所であったこと、そしてその居場所を何ものかによって破壊されたことこそが、一連の犯行の引き金になったと指摘している。
(146)厚生労働省(2018)によれば、「男性雇用者と無業者の妻からなる世帯」と「雇用者の共働き世帯」の数は1997年頃に逆転し、それからは「共働き世帯」の方が一般的なものとなっていった(なお同じ資料に基づくと、2017年の時点で、前者が614万世帯に対して、後者が1188万世帯とすでに2倍近い開きとなっている)。
(147)前述のように、「第三期」に成立した「〈ユーザー〉としての生」は、「カゾク」における〈共同〉を前提とした不完全なものであった。当時の人々は、結婚しなければ〈ユーザー〉としての権益を十分に得ることができなかったのであり、その意味において、当時は“世帯”こそが〈ユーザー〉の単位であったとも言えるだろう。したがって今日、人々が伝統的な性別役割分担を「不合理」だと感じるようになったのは、〈自己完結社会〉が進展し、誰もが個人単位で〈ユーザー〉として自立できる条件が整ってきたからだとも言えるのである。
(148)わが国でインターネットが一般家庭に普及しはじめるのは、「Windows95」が開発され、「Yahoo! Japan」などの検索サイトが登場してくる90年代後半になってからである。その後「2ちゃんねる」(1999年)、「google」(2000年に日本語でのサービス開始)、「wikipedia」(2001年)などが生まれ、2000年代の「情報世界」は、テキストサイト、匿名掲示板、メールマガジン、ウェブログの黄金時代だったと言えるだろう。詳しくは、ばるぼら(2005)、ばるぼら/さやわか(2017)を参照。
(149)しばしば語られる「会社の飲み会」などに見られる世代間のギャップには、こうした時代の名残が含まれているのかもしれない。「情報化」以前の世代にとって、それは仕事に不可欠な情報収集や人間関係の基盤づくりの場であるとともに、それ自体が大切な娯楽のひとつでもあった。しかし新しい世代にとって、会社はすでに「経済活動」に伴う〈間柄〉によって純化されるべき場所となっており、「飲み会」は娯楽どころか、しばしば「自分だけの世界」を犠牲にしなければならない「不合理」なものとして認識されている側面があるからである。
(150)ここでの、「地域社会」の実質的な意味とは、地域という枠組みが、人間形成や〈共同〉のための人間的基盤としての側面を保持しているかどうかということを指している。例えばかつて「親は無くとも子は育つ」という言葉が成立しえたのは、おそらくそこで「地域の人間」や「地域の大人」、「地域の子ども」といった〈間柄〉が共有され、そうした人間的基盤がセーフティーネットとして機能していたからである。
(151)もちろんそうした挫折を乗り越え、「自分らしさ」の理想を成功させた人々も数多く存在した。例えばあるものは、後継者不足に悩む伝統産業に飛び込んで弟子入りし、またあるものは、海外で修行を積んで職人となって帰ってきた。陶芸家や鍛冶屋、有機野菜農家、自然酵母のパン工房など、今日われわれがその成果を享受できているのは、ある面においては、彼らがその理想を貫き通してくれた結果でもあるのである。
(152)【第八章:第三節】で述べたように、人間の〈共同〉は、自由選択と自発性のもとでは決して成立しえない。しかし当時の人々は、「アソシエーション論」や「開かれたコミュニティ」などがもたらす誤ったイメージによって、あたかもそれが可能であると錯覚していたのである。
(153)「第四期」の若者世代にとって、「フリー」でいることは、安易にレールに乗ることなく、自分の力で「自分らしく」生きていることの象徴であった。そのためフリーターや派遣労働が拡大した当初、確かに彼らはそれらをこうしたイメージの延長として捉えていた側面があったと言える。とはいえ企業の側もまた、おそらく手厚い保障を必要としない“手軽な労働力”を確保していく手段として、そうしたイメージを「活用」した側面があったのである。
(154)「自己責任」を批判する人々は、しばしばそれが、あたかも当人の意思とは無関係に、不当に植えつけられたイデオロギーであるかのように考えている。とりわけ新自由主義の批判者であれば、それはグローバル資本がもたらす搾取の構造を隠蔽するためのイデオロギーであると言うだろう。しかしそうした理解は、例えば「年越し派遣村」において、自身の困窮は誰のせいでもなく自分の責任であるとして、頑なに支援を拒んだ青年の心情(NHKクローズアップ現代取材班編 2010)をどこまで汲み取れていると言えるのだろうか。「第四期」の前半、確かに人々は〈共同〉を色濃く残した「カイシャ」のスタイルよりも、個人単位の能力主義を歓迎していた側面があった。「〈ユーザー〉としての生」を自明視する人々にとって、〈生〉が自身の選択によって実現されるべきものならば、その選択の帰結を他の誰でもない自分自身が負うべきだとする「自己責任」の論理は、実はきわめて自然なものなのである。さらに言えば、ひとりひとりが自立し、責任ある主体となることは、かつての人々があれほど口にしてきた〈自立した個人〉の体現そのものではなかっただろうか。ここで彼らは、まさに〈自立した個人〉を生きようとして、そして挫折したとも言えるのである。
(155)前述した宮台真司は「第三期」の終わりに、10代の若者たちが「さまよえる良心」に苦悶することなく、まったりけだるく「終わりなき日常」に順応している姿を目撃して、その心の強靱さを「まったり革命」と呼んで賛美した。しかし彼は、後にそうした評価が誤りだったことを自ら率直に語っている。それは、彼が主として参与観察してきた援助交際を行う少女たちが、後になって自傷行為に走るなど次々に心を病んでいったからである。詳しくは宮台(1998、2006)を参照。
(156)この「諦め」の感情は、【第十章】で述べる〈有限の生〉の肯定とはまったく異なるものである。例えば「肯定」とは、受け入れることであり、受け入れることは前に進むことを意味している。これに対して「諦め」とは、「何をしても無意味である」という否定の感情にとどまり続けることを本意とするからである。筆者がその感情を思うとき、想起するのは映画作品『ネバー・エンディング・ストーリー』(W・ペーターゼン監督、1984)のなかで、悲しみに囚われて動けなくなり、無抵抗のまま沼に沈んでいったアトレイユの愛馬、アルタクスの姿である。
(157)森岡正博の『無痛文明論』(2003)は、人間の本性と現代社会、そして人間の生き方の問題を包括的に論じたものであり、このアプローチを「文明論的アプローチ」と呼ぶのであれば、本書もまたそれと近いアプローチを含んでいると言えるだろう(森岡 2003)。森岡によれば、人間存在は本性的に苦しみを低減させ、快適さを求める。そしてその欲望は、単なる痛みのみならず、臭い、汚い、醜いといったあらゆる不快を除去したいという願い、自身の環境を管理し、コントロールすることによって、安心、安定を拡大させたいという願いとなって展開していくことになる(森岡はそれを「身体の欲望」と呼ぶ)。森岡にとって「無痛文明」とは、そうした欲望が、科学技術や社会制度によってこの社会に具現化したものであり、われわれの社会がますますそうした「無痛化」に向かって邁進していると分析する。そして「無痛文明」のなかで安住してしまうわれわれは、それによって人間が本性的に持っているもうひとつの欲望、つまり予期せぬ出来事に遭遇することによって新しい世界、そして自身も知りえなかった新しい自分を発見していく喜び(森岡はこれを「生命の躍動」と呼ぶ)を、自ら破壊してしまっているとした。こうした森岡の分析は、本書の〈自己完結社会〉をめぐる分析とも深く関わるものであるだろう。もっとも本書においては、現代人の苦しみの本質は別のところにあると理解される。本書の分析によれば、「無痛文明」が勝利するためには、【第十章】で見るように、人間が人間であることを捨て去らなければならない。「無痛文明」がもたらす苦しみは、「生命の躍動」が剥奪されることに由来するのではなく、ここでは「身体の欲望」から派生した〈無限の生〉の理想、そこにある歪んだ人間理解/自己理解/世界理解が、人間的現実との間に引き起こす乖離にこそあると考えられているからである。
(158)宮台によれば、かつての日本社会には、親しい人も初対面の人も、立ち寄って会話が成立しえるような「縁側的空間」が存在していた。そしてその背景にあったのは、「世間のまなざし」であり、その前提となる「同じ世間を生きている」という感覚であったという。これに対して、宮台が目撃した新しい世代の人々の間では、特定の「仲間」として認知された少人数を除いて、そうした共通感覚が成立していない。そしてそうした無数の共役不可能な「仲間内」の別世界が、小島のように点在していると指摘したのであった(宮台 2000、2006)。「第四期」とは、そうした世代の少年少女らが成人し、社会の中堅層となっていく時代であった。
(159)ここでは確かに、古い形の世間は解体していたと言えるだろう。しかしだからといって、人間社会から完全に世間そのものが失われたわけでは決してなかった。後に見るように、今度は「島宇宙」を形作る「仲間内」こそがある種の強大な世間として機能するようになり、人々はその目なざしに多大な「抑圧」を感じるようになるからである。
(160)「第三期」までの人々が共有していた、「目の前の理不尽さに耐え人並みに努力さえしていれば、いずれはすべてがなるようになる」といった素朴な安心感は、ここではすでに失われていた。そしてそれは、根源的には“世間のまなざし”と表裏の関係にある「消極的な〈信頼〉」、すなわち「集団的に共有された人間一般に対する〈信頼〉」の喪失でもあったと言える(【注121】も参照)。
(161)小児科医の古荘純一(2009)は、専門外来において、自尊感情が低く、とめどなく不安を抱える子どもたちが増えてきていることに警鐘を鳴らしていた。古荘によれば、自尊感情は思春期には低くなり、その後回復していくのが一般的であるにもかかわらず、日本社会においては、成人を迎える頃になっても自尊感情が低下したまま回復しない事例が散見される。また自尊感情が低い子どもの両親は、同じように自尊感情が低い傾向にあると指摘している。こうした危機感については鹿児島医療・社会・倫理研究会/増田編(2019)も参照のこと。
(162)「この私」の理想に縋る人々のうち、あるものは理想の「自己実現」を果たすことだけが生きる拠り所となって、がむしゃらに動き回り、またあるものは、「自己実現」すべき夢が自分にはないといって人生に絶望する。しかしそうした「自己実現」は、結局のところ個人的な願望や執着などと紙一重のものに過ぎないだろう。
(163)2002年に放送されたテレビドラマ『天体観測』(関西テレビ制作)は、理想と「諦め」との間で引き裂かれたこの時代の人々の心象風景をよく表現しているように思える。若者たちは、一方では「かけがえのないこの私」の夢や希望を信じたいと願いながら、それでもどこかでそれを心の底から「諦め」てもいる。彼らは世界や人生に対して常に傷ついているのであって、繰り返される否定的な演出の度に、見るものはあたかも自分で自分の傷をえぐるかのような心地がする。それを見て人々が「感動」する姿は、どこか自傷行為さえ連想させるだろう。【注165】も参照のこと。
(164)彼らが求めた、建て前や上辺ではない、対等で、本音や本心でぶつかりあえるコミュニケ―ションは、やはりひとつの幻想であった。筆者が【第八章】において、「0か1かの〈関係性〉」と呼び、「存在を賭けた潰し合い」と呼んだのはこのことである。彼らは「ゼロ属性の倫理」を体現することによって、世間の求める〈間柄〉を忌避したが、かえって「底なしの配慮」のなかでコミュニケーションの虚構感に苦しんだ。しかし彼らに必要だったのは、おそらく〈間柄〉によって塗りつぶされた〈関係性〉でもなければ、文字通り本音や本心で衝突する〈間柄〉の欠落した〈関係性〉でもない、適切な〈距離〉を行使できる多彩な〈関係性〉の土壌であった。
(165)実際、「第四期」のサブカルチャーには、そうした「この私」を希求しつつ、存在の揺らぎに苦しむ人々の心象を反映するかのような作品が溢れていたように思える。例えば1995年から放送されたテレビアニメ『新世紀エヴァンゲリオン』(庵野秀明監督)には、無意味化した世界と、孤立し、傷つくだけの自意識という、「第四期」に見られた時代の特質が先取りされていただろう。そこでは周囲の誰一人、そして何ひとつとして「この私」に“意味”を開示しようとするものはない。がむしゃらに動き続けるだけの不可解な世界のなかで、「この私」の自意識だけが唯一取り残されている。それでも世界は、ことあるごとに「この私」を振り回し、ことごとく「この私」を責め立て、否定する。「この私」は、ただありふれた日常を平穏に過ごしたいだけであるにもかかわらず。その姿は「第四期」の若者たちが感じ取っていた現実社会の姿そのものではなかっただろうか。また、2011年から放送されたテレビアニメ『魔法少女まどか☆マギカ』(新房昭之監督)には、この時代の自傷的側面が体現されていたようにも思える。そこでは一見暴力や残忍さからは無縁の舞台装置が敢えて設えられ、そのくせ実際にはいやらしいほど暴力的で残忍な演出が繰り返される。それを見て人々が「感動」する姿は、前述した『天体観測』と同様に(【注163】を参照)、どこか傷ついている「この私」を敢えて再び傷つけているようにも見えるだろう。さらに『巨神兵東京に現わる 劇場版』(樋口真嗣監督、2012)において演出された、痛みもなく壊れていくこの世界の描写は、「諦め」のなかで、自意識を防衛できるここではないどこかを密かに夢見る、同時代の人々の願望をそのまま体現しているかのようである。
(166)こうした〈郊外〉の〈漂流人〉は、おそらく「第三期」においても一定程度誕生していたと思われる。その意味においては、先に見た世紀末の〈隠者〉たちは、もしかするとこうした〈漂流人〉の先駆けとなった人々だったと言えるのかもしれない。