【本文】


未来世界を哲学する―環境と資源・エネルギーの哲学)
未来世界を哲学する
環境と資源・エネルギーの哲学


〈自己完結社会〉の成立(上)
上柿崇英著


〈自己完結社会〉の成立(下)
上柿崇英著

環境哲学と人間学の架橋(上柿崇英 
/尾関周二編)
環境哲学と人間学の架橋
上柿崇英/尾関周二編


研究会誌『現代人間学・
人間存在論研究』

   

『〈自己完結社会〉の成立』(下巻)
【第九章】〈自己完結社会〉の成立と〈生活世界〉の構造転換


(4)〈郊外〉の成立と〈旅人〉の定住化


 続いて見ていく「第三期」は、高度消費社会の隆盛からバブルの崩壊、日本経済の全盛期と凋落までの期間(1970年‐1995年)である。それは「二五歳=一世代の例え」に即して言えば、2020年基準でおよそ、読者の両親から祖父母らが読者の同年代として生きた時代に相当する。

 その時代の外観は概ね次のようになるだろう。まずそれは、「第二期」後半から進められてきた資本制社会の「改良」が完成した時代であった。ゆきわたる豊かさ、充実していく社会保障のなかで、いつしか日本社会は「一億総中流」と呼ばれるようになっていた(75)。
 日本経済は「ドルショック(76)」および「オイルショック(77)」によって一次的な停滞をみたものの、その後は「ジャパン・アズ・ナンバーワン」とまで呼ばれた「経済大国」にまで登り詰めていくことになる(78)。
 ひとつの転機となったのは、日米貿易摩擦(79)が生んだ「プラザ合意(80)」であるだろう。ここでの急激な円高と“カネ余り”によって、日本社会はますます狂騒的な消費社会へと変貌を遂げていくことになるからである(81)。
 しかしソ連の解体と冷戦の終結という歴史的事件を経て(82)、世界が未だにその余韻に浸るなか、膨張しきったバブルはあっけなく崩壊する(83)。そして日本は、ここから「失われた20年」とも呼ばれる長期停滞の時代へと移行していくことになるのである。

 思想史的な文脈から見れば、「第三期」は「繁栄と動揺の時代」であった。
 戦後的理想をめぐる理念闘争は廃れ、人々の関心は“豊かな社会”を生きる自らの生活へと移っていった。しかし“豊かさ”の謳歌だけでなく、それがもたらす矛盾や代償、あるいは病理や危うさといったものが問われてくるのもこの時代だったからである。

 例えば激しい産業化や都市化の洪水のなかで、何か人間としての重要なものが失われつつあるのではないかという素朴な感覚は、早い段階から指摘されていたと言える。
 効率を求める過度な合理化や、それがもたらす人間的感性の衰え、関係性の希薄化など、一連の問題はしばしば大衆社会の病理(84)、あるいは総じて「人間疎外」(85)の問題と呼ばれていた。
 そしてそこに「疎外論」という理論的支柱を与えたのは、「マルクス=レーニン主義」と決別し、人間論としてマルクスを読み替えた「第二次マルクス主義」であっただろう(86)。

 この時代、“階級闘争”や“労働者の執権”といった論点に代わって、「かけがえのない個人」「自由な個性」が強調されるようになっていた(87)。なかでも“管理社会”や“全体主義”は、時代を問う論点として改めて主題化され、社会に潜む“権力”や“規律”がもたらす抑圧の問題が繰り返し論じられた(88)。
 ここで知識人らが訴えていたのは、人間的理想としての「自由な個性の全面的な展開」であり(89)、そうした個人が互いの自由の尊重のもと、新たな形の連帯を築いていくこと――それをわれわれは【第八章】「自由な個性」と共同性の止揚と表現してきた――であっただろう。
 そしてこうした文脈のもと、不可視化された権力や規範、抑圧の構造を白日のもとに晒していくこと、さらには抑圧された人々を発見し、彼らの自由と権利を支援していくことこそが、人文科学の主要な実践となっていくのである(90)。

 このことは、別の側面から言えば、「第二期」以来の〈自立した個人〉の理想が、ますますわれわれの人間理解に骨肉化されていくことを意味していた。
 個の埋没として規定された日本文化は、ここで改めて欧米の「個人主義」に対立する「集団主義」として、あるいは「自由な個性」を圧殺するある種の全体主義として位置づけられることになる。そして「集団主義」の克服のためには、やはり内面的な成熟が不可欠であるとの、おなじみの批判が繰り返されることになるからである(91)。

 「第三期」の後半になると、日本社会はモノにまみれた狂騒の時代へと突入していくことになる。そしてそこに現われたのは、“豊かな社会”に順応した新しい世代と、そうした世代に相応しい新しい思想であった。
 年長世代に“疎外状態”だと言われようとも、ただなんとなくそれを受け入れ、むしろ“ポップ”に、より“オシャレ”に私生活を満喫していく若者たちのことを、世間は「シラケ世代」とも「新人類」とも呼んだ(92)。
 そしてこの時代を代表する思想が「ポストモダン論」である(93)。この時代、文化人類学や精神分析が脚光を浴び、記号論を用いた消費社会の「差異化」の問題が盛んに論じられた。と同時に、「大きな物語」(grand récit)の終焉という標語のもと、理性や進歩、あるいはヒューマニズムさえも含む形で、従来の人間的理想の輝きが急速に失われていった。
 浅田彰は「シラケつつノリ、ノリつつシラケる(94)」と表現したが、それはまさしくこうした時代に相応しい、ひとつの知的態度であっただろう。人々を狂騒へと駆り立てていく巨大なシステムを前にして、もはや年長世代のように軽々しく革命などと口にはできない。
 一見退廃的で、嘲笑的であったとしても、自らはあの巨大な歯車から巧みに「逃走」しつつ、システムの周縁部分から群れなす人々に向かって繰り返し何かを訴えかけている。言ってみれば、それが新たな時代の「闘争」の形、「批判」の形だったのである(95)。

 もっとも、こうした狂騒にすべての若者たちが順応できたわけではなかった。享楽する世間の片隅において、実際には少なくない人々がそこから脱落しつつあったからである。
 ちょうどこの頃、学校ではいじめが注目され、家庭では家庭内暴力が騒がれるようになっていた(96)。オカルトが流行し、自己啓発セミナーや新興宗教が話題をさらうのもこの時代である(97)。別の文脈から見れば、深刻化する環境問題が伝えられ、それが人々に世紀末的な不安を駆り立てていた(98)。
 この繁栄をきわめた文明そのものが、いまや人類自身の手によってまさに崩壊しつつあるのではないか――人々はそのように恐れ、また来たるべき時代のことを「心の時代」とも「環境の時代」とも呼んだ。自己超越を目指すトランスパーソナル心理学も(99)、人間中心主義の克服を目指すエコロジズムも(100)、いわばこうした時代の申し子だったのである。

 こうして「繁栄と動揺の時代」の末期にあって、〈自立した個人〉の思想は大きく揺らいだ側面があった。それは一連の時代の変遷によって、その背後にあった理性や進歩の物語――社会は人間的理想に近づいているし、われわれにはそれを実現できる力があるとする素朴な信念――が信憑性を失っていったからである。
 それでも総じて見てみれば、この時代の知的風土は、必ずしも〈自立した個人〉の思想と対立するものではなかった。
 例えば「ポストモダン論」は、世の中が人々に要求するメジャーな存在、メジャーな生き方の枠組みを「脱構築」していったが、それは同時に、これまで抑圧されてきたマイナーな存在、マイナーな生き方を擁護するということを意味していた。先に触れた「心の問題」についても、その原因となるのは、概して人間それ自身を拘束するさまざまな制度や規範であると理解されていた(101)。
 つまり「かけがえのない個人」や「自由な個性」という文脈、そしてこうした「存在論的抑圧」(102)からの解放という文脈においては、「ポストモダン論」はむしろ〈自立した個人〉の思想に接近していく側面を持っていたのである。

 さて、一連の時代を背景として、「第三期」における〈生活世界〉の実態とはいかなるものであったのだろうか。
 例えばこの時期になると、生活水準の向上によって、いまや多くの人々が百貨店、スキー場、そして海外旅行に大挙するまでになっていた(103)。加えてそれは、おそらく日本史上、最も社会的な格差が縮小した特異な時代でもあっただろう。しかしここで重要なことは、この「第三期」こそ、〈生活世界〉の構造転換が最も著しく進行した時代であったということである。

 そのことを象徴しているのは、この時代に急速に拡大した〈郊外〉という空間だろう。ここでの〈郊外〉とは、人口増加が進む都市近郊に開発され、ベッドタウン、団地、ニュータウンとも呼ばれた新興住宅地のことを指している(104)。
 この時代、男性はサラリーマンとなって企業に勤め、女性は専業主婦となって家事全般――ここには当然育児も介護も含まれる――を取り仕切るという形が一般的化していく。そして〈郊外〉には、こうした新しい世代の夫婦たちが大挙して移り住むようになっていた。
 確かに現代のわれわれからすれば、そこでの性別役割分担はあまりに窮屈なものに見えるかもしれない。それでも当時の人々からすれば、そうした〈郊外〉の生活こそが、まさしく憧れの的であった。
 不便で汚く、融通の利かない隣人たちとの〈共同〉に縛られた“昔ながらの暮らし”を知る人々にとっては、〈郊外〉での暮らしは、便利で清潔、さらにはプライベートさえ確保されうる夢のような生活であった。
 それゆえ男性は学歴を積んで優良企業に勤めること、また女性はそうした優良企業に勤める男性と出会うこと、そして互いに恋愛結婚を経た後に、〈郊外〉でマイホームを獲得すること、それこそが人生の「黄金ルート」だと考えられていたのである(105)。

 とはいえこうした〈郊外〉は、ひとつの地域社会のように見えて、その実、伝統的な地域社会とはまったく異質な空間でもあった。
 例えば別の見方をしてみよう。そこに広がっていたのは、群れをなす「企業戦士」たちのみならず、「経済大国」の主役となった、「カイシャ」(106)というシステムそのものを補完している「カゾク」(107)の姿である。
 「カゾク」は「カイシャ」を陰で支え、同時に「カイシャ」に全面的に依存してもいる。そして〈郊外〉とは、そうした無数の「カゾク」が、その土地本来の文脈とは無関係に集住するという、まったく新しい社会的空間だったからである。
 伝統的な地域社会が、絶えざる隣人同士の〈共同〉によって支えられてきたのに対して、〈郊外〉においては、前述のように隣人同士の〈共同〉がそもそも想定されていない。それぞれの「カゾク」はあくまでそれぞれの「カイシャ」に紐付けされているのであって、最低限の“交流”はあっても、そこには〈共同〉の必然性、「〈共同〉のための事実」がそもそも成立しないのである。
 さらに言えば、その空間は公団や自治体、開発者らによって都合良くパッケージ化された、それ自体がひとつの商品でもあった。トレンディドラマを思わせる名称に、テーマパークのごとき整然さに包まれた造形、そこには〈生活者〉としての人間が幾世代もの時間を経て、その土地で〈生〉を紡ごうとして重ねてきた諸々の格闘の記憶、そして〈共同〉の記憶というものが存在しない。
 それは言ってみれば、〈存在の連なり〉に決して根づくことのない、本質的に浮遊した空間だったのである(108)。

 だからだろうか。こうした“豊かで文化的な暮らし”が実現していく影の部分で、前述した人心の荒廃が確かに進んでいるようにも見えた。見田宗介や大澤真幸は「虚構の時代」と表現したが、それは彼らが同時代に感じ取っていた漠然とした“嘘くささ”のことを強調してのことだろう(109)。
 すべてが満たされているように見えながら、生活それ自体のなかですべてが偽りに満ちたもののように思える感覚、あるいは華々しさの傍らで黴のごとく心に巣くっていく空虚な感情(110)。そうしたものが確かに人心を蝕みつつあるように見えたのである。

 確かに「第三期」の後半にもなると、社会の狂騒はますます先鋭化しつつあった。
 高騰するジャパン・マネーを背景として、企業はホテルやゴルフ場に殺到し、サイパンからニューヨークに至るまでの海外資産を買いあさった(111)。都会では、高級ブランドに身を包んだ若者たちがディスコに集って踊り狂う(112)。テレビでは連日政治家の汚職問題が放送され、繁華街には財テクで大金を掴んだ「バブル紳士」たちが高級車で乗りつけている(113)。
 そのありさまは、まさしく「この世は金さ」を体現するものであっただろう(114)。

 そうしたなかで、人々は「一億総中流」の時代にはまだ保持されていた、世間の素朴な一体感やモラルといったものが消失していくように感じていた。“豊かさ”が与えた自由の影で、人々はますます身勝手な“私人”になっていくように見えた。
 そこにあったのはひとつの“幻滅”であり、このことは〈郊外〉での暮らしについても同様であった。例えばあれほど憧れた生活のなかにも、人々は不倫や暴力、子どもたちの非行といった多くの苦い現実があるということを噛みしめていた(115)。
 先人たちが身を削りながら達成したはずの繁栄という夢、そして〈郊外〉に築かれるはずだった愛に溢れた家庭という夢、ここで人々が打ちのめされていたのは、それらがあまりに偶像化されていたからでもあったのである。

 だが、それだけではなかっただろう。前述のように〈郊外〉に生きるということは、〈存在の連なり〉から浮遊した空間において、自らが必要とするあらゆる福祉を、隣人との〈共同〉によってではなく、〈社会的装置〉が提供する財やサービスによって実現していくことを意味していた。
 換言すれば、それはまさしく「〈ユーザー〉としての生」を生きるということを意味していたのである。【第五章】で見てきたように、「人間的〈生〉」の枠組みが「〈生活者〉としての生」から「〈ユーザー〉としての生」へと移行するとき、そこには「〈生〉の不可視化」「〈生活世界〉の空洞化」が引き起こされる。
 そこでは根源的な〈生〉の実現様式が〈社会的装置〉への委託を媒介としたものとなり、〈生〉の現実は「経済活動」「自己実現」「学校教育」といった形で矮小化されていく。人間存在が「生きる」理由、それは原始より変わることなく「集団的〈生存〉」の実現――〈生存〉〈現実存在〉〈継承〉という三つの契機を伴った――であったことが、そこではわれわれに実感可能な意味という形では失われてしまう。
 この時代の「虚構」の感覚とは、おそらくこうした一連の要因が重なりあう形で人々に感受されたものだったのである。

 ところで、こうした〈郊外〉に移り住んだのは、「第二期」で見てきたあの〈旅人〉たちであった。その文脈からすれば、「第三期」とは、前時代以来の〈旅人〉たちが「定住」していく時代であったとも言える。
 確かに彼らの多くもまた、存在の寄る辺となるべき〈故郷〉をその内面に携えていたのかもしれない。しかしそうした人々にとって、“昔ながらの暮らし”ほど嫌悪すべきものはなく、かといって夢や理想があるのだとすれば、それらはすべて“私生活”のなかにこそあった。
 だからこそ彼らは〈社会的装置〉の〈ユーザー〉となって、浮遊した〈郊外〉に「定住」していく。そしてある人々はレジャーと享楽に埋没していき、またある人々は、世紀末の〈隠者〉となった。世紀末の〈隠者〉たち――それは先に触れたように、騒然とした世相に“ノる”ことができず、享楽の波から脱落した人々のことを指している(116)。
 宮台真司が言うように、「終わりなき日常」「さまよえる良心」こそが、こうした人々のひとつの心象風景だったのかもしれない(117)。そして深まる疎外状態と人心の荒廃、迫り来る世紀末的不安、こうした矛盾がひとつの頂点をなしたのが、おそらく「地下鉄サリン事件」だったのだろう(118)。

 もっとも「第三期」に確立した「〈ユーザー〉としての生」は、ある部分においてはきわめて不完全なものであった。というのも〈郊外〉の住人たちは、一方では確かに隣人たちとの〈共同〉から解放されてはいたものの、今度は「カイシャ」と「カゾク」という場が、「二四時間戦う」ことを余儀なくされる濃密な〈共同〉の場となっていたからである(119)。
 前述のように、彼らは「〈ユーザー〉としての生」の“お気楽さ”を知ってしまった最初の世代の人々であった。それでも彼らが「カイシャ」や「カゾク」といった場で、〈共同〉の負担に耐えることができたのはなぜだったのだろうか。
 おそらく「第三期」には、たとえすべてが「虚構」めいた出来レースのように思えたとしても、目の前の理不尽さに耐え、人並みに努力さえしていれば、いずれはすべてがなるようになるといった素朴な安心感が未だに残されていた(120)。
 言い方を換えれば、揺らぎ始めてはいたが、人々は自身が所属する人間社会を未だに信頼していたのであり、そこで接する身近な人々に対しても素朴な信頼を保っていた。それは【第八章】において、われわれが「集団的に共有された人間一般に対する〈信頼〉」、加えて「共有された意味に対する信頼」と呼んできたもの、長い年月をかけて人々が築き上げてきた、ひとつの消極的な〈信頼〉の形に他ならない(121)。
 〈郊外〉に移り住んだ最初の世代の人々は、確かに「〈共同〉のための事実」を失っていた。それでも彼らは後の世代に比べれば、おそらくはるかに〈共同〉のための潜在力を保持していたと言えるだろう。
 とりわけ彼らが幼少期に〈生活世界〉での〈共同〉を経験し、そこで図らずも「〈共同〉のための意味」や「〈共同〉のための技能」を培ってきたこと、それは彼らが成長して〈ユーザー〉となってからも、〈共同〉を再開できる余地がはるかに大きいことを意味していたからである。


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(75)70年代になると、老人医療無償化や健康保険給付金、年金水準のさらなる向上などが図られるとともに、所得の平等化も進んでいった。その結果、国民の大半が揃って“中程度の豊かさ”を実感する「一億総中流」が実現された。このことは政治的にはきわめて重要な意味を持っていた。なぜなら「第一期」に見られた「絵に描いたような資本主義」はここに至って消滅し、革新勢力からすれば、自らの強みとされてきたはずの多くの政策が、資本制社会の枠内で、しかも保守勢力の手によって実現されてしまったことを意味していたからである。そして経済という一方の車輪を失った革新勢力は、ここからますます憲法問題や基地問題といった戦後的理想をめぐる“理念闘争”においてしか活路を見いだせなくなっていくのである。猪木(2000)、河野(2002)を参照。
(76)第二次大戦後に成立した「ブレトンウッズ体制」では、金と交換可能なドルを世界の基軸通貨とし、世界の通貨はドルとの固定レートによって交換されていた。これに対して1971年、ドルと金との交換を停止し、変動相場制への移行を宣言したのが「ドルショック」である。このとき日本では、1ドル=360円の固定レートが崩れて急激な円高となり、経済は一時大きな打撃を受けることになった。猪木(2000)を参照。
(77)きっかけとなったのは第四次中東戦争(1973年)であり、このときアラブ諸国は、親イスラエルの西側諸国に対して石油の輸出制限や値上げ措置などを行った。第一次エネルギーの多くを中東に依存してきた日本では、このとき急激なインフレ――「狂乱物価」と呼ばれた――と「物不足」によって、社会は一時騒然となった。猪木(2000)を参照。
(78)これは日本人が自称したのではなく、E・F・ヴォーゲル(E. F. Vogel)の著作『ジャパン・アズ・ナンバーワン』(Japan as Number One, 1979)に由来する。ここでは日本が少ない資源にもかかわらず、世界のどの国よりも脱工業化社会の直面する基本的問題の多くを、最も巧みに処理してきたと評価され、経済のみならず、政治や福祉、教育、防犯をも含んだ包括的な観点からアメリカ社会が学ぶべき多くの点があることが論じられていた(ヴォーゲル 1979)。また、P・ケネディ(P. Kennedy)の『大国の興亡』(The Rise and Fall of the Great Powers, 1987)――西暦500年から2000年までの世界史を経済と軍事の側面から紐解こうと試みた――の表紙絵には、地球を模した舞台と、その上から一足先に退いていく「英国紳士」、今まさに降りようとしている「米国紳士」、そしてその後ろには、今まさに舞台に手をかけて登らんとしている日本人風の「サラリーマン」が描かれていた(ケネディ 1988)。今日のわれわれからすれば信じがたいことであるが、ある一時代において、諸外国がこぞって日本社会の成功の秘密について関心を寄せるなどという事態が、ここでは本当に存在していたのである。
(79)かつて日本の製造業は、米国をひとつの模範とし、米国に追いつくことをひとつの目標としていた。しかしこの時代、松下、ソニー、東芝、トヨタ、日産、ホンダなどがすでに世界的な企業となり、日本製品は性能面でも十分な競争力を備えるに至っていた。こうして、米国側には大量の日本製品が流入して国内産業が打撃を受ける一方で、日本の消費者は敢えて米国製品を買うことがないために、米国側に一方的な貿易赤字が蓄積していく。これが「日米貿易摩擦」の問題であった。この時期、ソ連が弱体化したことも背景として、米国側には、経済力を武器に「侵略」を進める日本こそが主敵であるとの認識が拡大していた。米国側は、米国製品の不振の原因が日本側の「非関税障壁」にあるして批難し、日本側はそうした米国側の求めに応じる形で、繰り返し輸出規制や内需拡大、米国製品の輸入枠の拡大などの措置を講じてきた。米国側が言いだしにくいことを忖度して、自主的に輸出を制限したり、米国内への工場移転を実施したりすることさえあったと言われている。1985年の「プラザ合意」はその延長線上にあり、一連の問題はその後も日米構造協議、GATT、WTO、TPP、FTAという形で今日まで引き継がれている。詳しくは、渡邉(2000)、下斗米/北岡(1999)を参照。
(80)当時の世界経済は、米国、EU、そして日本による三つ巴の“経済戦争”のごとき様相を見せていた。1985年の「プラザ合意」は、米国流に言えば、ドルの「不当評価」を改めることを目的として、各国が協調して円高誘導を図るとする国際合意であった。米国とEUにとっては、日本の輸出産業の攻勢を抑えるための措置であったが、このとき日本側は、国際協調の立場から自ら率先して為替に介入していった。ところが、1ドル=200円を妥当なラインと見なしていた日本側の期待は見事に裏切られる。1ドル=242円だった為替は、2年後にはおよそ半分の1ドル=122円を記録するまでに高騰していったからである。岡本(2018)、渡邉(2000)を参照。
(81))前注に見るような円高攻勢にあっても、この時期の日本経済はほとんど打撃を受けていないように見えた。その背景にあったのは、公定歩合の段階的な引き下げに加えて、企業の海外移転が進行する前に生じた顕著な円高メリットだったと言われている(レートが半分になるということは、見方を変えれば、原材料を含む輸入品の購買力が2倍になるということを意味していた)。金利が引き下げられたことによって、国内には大量の資金が出回り、それが次々と土地や株に投資されていった。株価は1986年には1万3000円台に過ぎなかったが、3年後の1989年12月29日には最高値3万8915円を記録する。地価についても、5年間で実に4倍にまで膨れあがった。いわゆるバブル経済の始まりである。下斗米/北岡(1999)、渡邉(2000)、岡本(2018)を参照。
(82)西側諸国が「経済戦争」に突入していくなかで、東側諸国は一連の成長と繁栄からは取り残されていった。かつては科学大国と呼ばれたソ連も、この時期になると周辺国への影響力を失い、1989年には東西冷戦の象徴であったベルリンの壁がついに取り除かれた。ソ連自体も国内では言論の自由や市場経済の導入が進められていたが、1991年には結局崩壊することになる。詳しくは下斗米/北岡(1999)を参照のこと。
(83)バブル経済の頂点は、株価の最高値を記録した1989年であり、翌年には不動産の総量規制を契機として、地価も下落していくことになる。しかしこの時点ではまだ、多くの人々がバブルの崩壊をほとんど実感していなかったという(実際バブルの象徴ともなった「ジュリアナ東京」が開業したのは1991年になってからのことであった)。そしてそれはバブルがあまりに巨大だったことに加えて、証券会社や銀行が損失補填を繰り返したためでもあった。それでも1997年になると、不良債権を抱えた証券会社や銀行が相次いで破綻し始め、人々は否が応でもそれを実感することになる。詳しくは岡本(2018)を参照。
(84)「第二期」の後半から「第三期」にかけて、“大衆社会論”は時代を分析するためのひとつの重要な主題となっていた。大衆社会とは、産業社会に特徴的となるアトム化した個人の集合体としての社会のことを指し、例えばD・リースマン(D. Riesman)による「他人指向型」(other-directed type)の人間の主流化をめぐる問題(リースマン 1964)――産業社会においては、人々が自らの行動を方向づける際、マスメディアを含む同時代の他者からの影響をきわめて強く受けるようになるとする――や、E・フロム(E. Fromm)による自由からの「逃走」をめぐる問題(フロム 1965)――伝統的な絆が失われた産業社会においては、人々は自由ゆえの孤独やわびしさから、他者や権威に寄りかかり、全体主義へと向かう危うさを伴うと指摘された――などがよく知られているだろう。
(85)例えば、清水正徳は言う。「急速に進む生活の公私両面にわたる機械化、技術的合理化。住居・衣・食の規格化・平均化。テレビをはじめ情報化の手段の進歩による言語表現・行動形態の中性化・無性格化。特に大都会に住む人たちが、これらのダイナミックな変化の中にあって一人ひとりの人間らしい感受も静思も表現も失われていくということ、一人ひとりの人間が相互に抱くはずの個別的な交流・信頼・愛憎といった有機的な関係が鈍化されマヒさせられていくこと」(清水 1971:8)。ここからは、当時の人々が現実社会から何を体感し、「人間疎外」という言葉に何を託そうとしていたのかということが読み取れるだろう。【補論二:注18】における古在由重の引用部分も参照のこと。
(86)「第二期」の時点においても、「スターリン批判」(1956年)に始まり、「ハンガリー動乱」(1956年)や「チェコ事件」(1968年)といった出来事を通じて、ソ連の権威は揺らぎ始めていたが、それでもブントや全学連に見るように、その基盤となる「マルクス=レーニン主義」そのものは盤石であった(猪木/高橋 1999、猪木 2000)。しかし「第三期」になると、「階級理論」や「史的唯物論」に基づく「マルクス=レーニン主義」そのものが流行らなくなっていく。そうしたなかで、かつては「未熟なマルクス」と見なされてきた『経済学・哲学草稿』(Ökonomisch-philosophischen Manuskripte aus dem Jahre, 1844)や『ドイツ・イデオロギー』(Die deutsche Ideologie, 1845-1846)などに注目し、こうした草稿や初期の著作のなかにこそマルクスの思想の潜在力が隠されていると考えたのが、本書における「第二次マルクス主義」である。そして「疎外論」は、こうした新たなマルクス主義の代表的な理論のひとつであった。【第八章:注4】も参照のこと。
(87)こうした問題意識の移行は、前注で触れた「第二次マルクス主義」の成立とも深い関わりがある。「マルクス=レーニン主義」においては、“個”に還元されない“社会”こそが重視され、東側世界の実態としても、しばしば「自由な個性」が軽視される側面があった。「第二次マルクス主義」が批判していたのは、それが全体主義へと傾斜していく危険性でもあったのである。【第八章:第二節】も参照のこと。
(88)例えばG・オーウェル(G. Orwell)の『1984年』(Nineteen Eighty-Four, 1949)に描かれたディストピア――そこでは日常生活の隅々にまで「ビッグ・ブラザー」の監視が行き届き、思想や感情、そして言語さえ管理される――を想起するように(オーウェル 1972)、当時の人々は、人知れず拡大していく国家権力による監視や管理を問題視していた。この時期にM・フーコー(M. Foucault)が注目されたのも、社会的な規範やイデオロギーを、不可視化されたある種の権力や抑圧装置として理解するという一連の文脈においてであっただろう(フーコー 1975、1977)。なお、フーコーの権力論に対する本書の立場については【補論二:注66】も参照のこと。
(89)「自由な個性の全面的な展開」については【第八章:注30注4】を参照。
(90)こうしたアプローチから派生するものとして、「権力論」、「ジェンダー論」、「ポストコロニアル論」などの諸言説が指摘できるが、これらは今日でも人文科学の主要な実践として位置づけられているものである。ただし本書では、一連の思想が果たした歴史的役割を肯定しつつも、そこで暗に前提されてきた、権力や抑圧からの無制限の解放という枠組み自体は批判的に捉えている。というのもその枠組みこそが、ある面では【第十章】で述べる〈無限の生〉の「世界観=人間観」を体現しているとも言えるからである。
(91)日本社会の特殊性をめぐっては、これまで中根千枝の『タテ社会の人間関係』(1967)から土居健郎の『「甘え」の構造』(1971)に至るまで、多くの試みがなされたものの(中根 1967、土居 1971)、その大半は否定的な文脈を伴った日本的な「集団主義」――例えば間庭(1990)は、そのひとつの到達点と言えるものであろう――の分析に費やされてきた。ただし「ジャパン・アズ・ナンバーワン」とも言われた一時代においては、こうした日本社会の特殊性が肯定的に分析されるケースも見ることができた。例えば【第七章:注12】でも言及した浜口恵俊は、日本人の人間観や存在様式を「個人主義」でも「集団主義」でもない、他者との関係性において自己を規定する「間人主義」であり、そこに独自の成熟の形があるとした(浜口 1982)。こうした「肯定的な日本人論」はバブル崩壊とともに忘れ去られたが、「人間的〈関係性〉」の原理を読み解くうえでは、ある面において先駆的な要素を含むものであった。
(92)こうした新しい世代の感覚を表現したものとして、田中康夫の『なんとなく、クリスタル』(1981)がある。そこでは都会の派手な若者の日常が描かれていたが、音楽やファッションなど、当時の流行が脚注に事細かに解説され、大きな話題を呼んだ(田中 1985)。
(93)本書が言う「ポストモダン論」は、一般的に“ポストモダン”、“ポスト構造主義”、“ポストモダニズム”といった形で言及されるものをやや大雑把に捉えたものであり、より実態に即した言い方をすれば、80年代以降に「現代思想」という呼称で親しまれてきた一連のフランス現代哲学、およびそこから多大な影響を受けながら展開されてきた言説群のことを指している。J=F・リオタール(J.-F. Lyotard)は、これまで西洋近代が依拠してきた理性に基づく啓蒙、普遍的な正義や価値に基づく進歩といった諸概念の体系を「大きな物語」と呼び、そうした「大きな物語」が不信の目にさらされる時代のことを「ポストモダン」と呼んだ(リオタール 1986)。「第三期」の人々にとってそれは、暴走列車のように絶え間なく資本の論理に突き動かされていく社会と、そのなかでの人間理性や主体性に対する不信感であり、豊かさがもたらした私人化、および伝統的な社会の解体に伴う価値相対主義の進行、そして「第二期」に知的権威を独占していたマルクス主義(第二次を含む)の没落として経験されるものであった。J・ボードリヤール(J. Baudrillard)は、こうした時代の消費のあり方に着目し、われわれが他者との差異を表す記号の消費、絶え間ない差異化の狂騒に陥っていることを指摘したが(ボードリヤール 1979)、こうした文脈のもとで「消費社会論」が盛んに論じられたのもこの時代の特徴であった。なお、「ポストモダン論」に対するの本書の立場については、【補論二】を参照のこと。
(94)浅田(1982:6)。
(95)浅田がG・ドゥルーズ/F・ガタリ(G. Deleuze/F. Guattari)を通じて日本社会に見いだしたのは、生産と消費の網の目のなかで、絶えず「差異化」を強いられていく人々の姿と、蓄積された「過剰」を絶えず前進運動のなかに回収していく社会の姿、そして「パパ‐ママ‐ボク」のオディプス的欲望の断念を、追いつき追い越せという競争意識へと転化させられていく子どもたちの姿であった。革命の物語が幻想となったいま、すべての人々を絡め取っていく巨大な社会を前にできること、それは浅田にとっては「常に外へ出続ける」(浅田 1982:227)ことであったのだろう。浅田が「スキゾ・キッズ」や「ゲイ・ピープル」を称揚するのは、そうした人々が、聳え立つ社会の外部にあって、「逃走を続けながら機敏に遊撃をくりかえす」(浅田 1986:14-15)ことができる存在だと見なされていたからである。
(96)この時期、学校でのいじめが原因と考えられる自殺が相次いだことから、いじめ問題が社会問題化した。また家庭内暴力、摂食障害、不登校など、青少年を取り巻く問題が数多く注目されるようになったのもこの時代である。森田(2010)、芹沢(1989)。
(97)「第三期」の後半になると、北米の「ニューエイジ」文化に由来する、超能力、超常現象、異星人、偽史などを含んだ“オカルト”が流行した(海野 1998)。また、「自分磨き」を謳ったカルトまがいのセミナーや研修、オウム真理教を筆頭とした新興宗教が流行した。当時の新興宗教については島田監修(2011)を、また当時の“洗脳”の実態については塩谷(1997)を参照。
(98))環境問題は「第二期」には“公害”と呼ばれ、主として健康被害の問題と関連づけて理解されていた。しかし「第三期」になると、オゾン層の破壊や地球温暖化といった地球環境問題が知られるようになり、とりわけ1992年のリオデジャネイロサミットや1993年の環境省の設置、環境基本法の制定などを通じて、欧米の環境主義が流入するようになった。そして次第に、環境問題は自然と人間の“共生”をめぐる問題として理解され、人類文明の行き詰まりを印象づけるさまざまなキャンペーンがメディアを賑わせることになった。“公害”から“環境”への変遷については阿部/淡路編(1998)を、環境と文明の問題については西川(2002)を参照。
(99)トランスパーソナル心理学は、前述した北米の「ニューエイジ」とも密接に関わりを持ち、意識の成長段階として、個体的自我を超越し、自己を他者や共同体、人類、生態系、地球、宇宙といったより大きな全体性へと拡張、同一化させることを希求する。1990年代にはわが国にも輸入され、「心の時代」を読み解くひとつの重要なアプローチとして注目された。詳しくは岡野(1990)や諸富(2009)、【注143】も参照のこと。
(100)エコロジズムとは、1970年代の環境主義からさらに一歩踏み込み、環境問題の根源を人間中心主義――自然や生命、生けとし生けるものを相互に切り離して理解し、またそれらを人間にとっての道具としてのみ理解しようとする世界観――にあると見なし、生態系を構成するあらゆる“いのち”のつながりを呼び覚ますことによって、そうした全体の一部分としての人間存在の然るべきあり方を希求しようとする環境思想の一種である。その典型的なものは、北米のディープ・エコロジー運動であったが、1990年代には環境問題への注目もあって、そうした思想のイマジネーションがわが国にも盛んに流入した。ネス(1997)、加藤(1991)、森岡(1994)を参照。なお、エコロジズムは筆者の長年の研究対象のひとつでもあり、上柿/尾関編(2015)も参照のこと。
(101)例えば前述したいじめなどをめぐっても、その背景にあるのは過度な管理教育や詰め込み教育、受験戦争といった、子どもたちを取りまくさまざまな“抑圧”であると考えられた。例えば後の「ゆとり教育」へとつながる中央教育審議会の答申によれば、関係性の希薄化や地域の教育力の低下に加えて、子どもたちの個性を圧殺する「同質にとらわれる社会」こそが問題であるとされている(中央教育審議会 1996)。なお、この時期に子どもたちのストレスを「イノセンスの解体」というユニークな概念によって説明したのが芹沢俊介(1989)である。芹沢の言う「イノセンス」とは、自身の親や身体、あるいは自身の誕生そのものといったように、自らの意思では根源的に選択することができないこと、したがってその責任を自らに問うことができない物事を指している。芹沢によれば、子どもたちの問題行動の背景には、こうした「イノセンス」をめぐるねじれた感情――その選択できない何ものかを受け入れなければならないことを知りつつも、その根源的な受動性を受け入れることができずに苛立ちや怒りを抱える――があるという。そして子どもたちに必要なことは、その選択できない何ものかを肯定すること、いわば心情的な「選びなおし」によって、「イノセンス」を自ら解体させることであり、大人たちに必要なことは、それを見守り支援していくことであるという。一連の議論は、“抑圧からの解放”というありふれた問題設定とは異なり、本書が【第十章】で述べることになる〈有限の生〉の肯定という論点に対しても密接に関わるものであると言えるだろう。しかし芹沢の議論においては、この〈有限の生〉をめぐる問題が、子どもに特有の問題として矮小化されてしまっている。実際芹沢は、子どもたちの振るう暴力が「イノセンスの表出」である以上、周囲の人間は、それを一切否定することなく受け入れなければならないとする。しかし、それは逆説的に、大人たちが直面する〈有限の生〉の現実を、今度は“無限の忍耐”を要求することによって否定しているとも言える。〈世界了解〉をめぐる苦しみや葛藤は、子どもたちだけの問題ではない。われわれに求められるのは、人間存在そのものの根源的な有限性を肯定しようとするとき、そこで何が必要になるのかということである。
(102)本書では、こうした個人の存在のあり方に関わる抑圧のことを、政治的弾圧や独裁政治、言論統制といった「政治的抑圧」とは区別される形で「存在論的抑圧」と呼ぶことにしたい。なお、この概念は【第十章】で見ていく「政治的自由」「存在論的自由」の概念に対応したものでもある。
(103)渡邉(2000)、岡本(2018)。
(104)都市の成長に伴う郊外の開発はすでに戦前から行われていたが、本書で言う〈郊外〉が発達してくるのは、少なくとも「第二期」の後半(1960年代)になってからであるだろう。そして「第三期」は、まさにこうした〈郊外〉化の全盛期であったと言える。なお一般的に“ニュータウン”といえば、多摩ニュータウンや千里ニュータウンといったように、厳密には宅地のみならず、商業施設や公共施設などをも備えた計画都市全体を指す場合が多い(この場合、計画都市のなかの宅地部分が“団地”となる)。ここではそうしたニュータウンも含めて、伝統的な地域社会と一線を画し、〈社会的装置〉へのぶら下がりを本質とする同時代の新興住宅地のことを広く〈郊外〉と呼ぶことにしたい。〈郊外〉の社会史については、若林(2007)や金子(2017)を参照。
(105)〈郊外〉化が全盛をきわめた時代においては、人々はこうした「黄金ルート」の先に、快適で文化的な生活、加えて愛に溢れた安らぎや団らんといった、過度に理想化された〈郊外〉のイメージを持っていた。そしてこうした“マイホーム神話”や“家族神話”が現実によって裏切られたことが、おそらく後に述べる「虚構」の感覚をもたらすひとつの要因となっていくのである。若林(2007)、山田(1994)を参照。
(106)ここでの「カイシャ」とは、かつて日本型経営とも呼ばれた終身雇用制、年功序列賃金、企業内組合を前提とした企業形態のことを指している。とりわけ終身雇用制は、一度雇用した労働者を原則として定年まで長期にわたって雇用するというものであり、これによって日本経済は失業問題を回避すると同時に、労働者の企業への忠誠度を高めて組織的な競争力を高めてきたとされている。そこでは多くの〈共同〉が求められたが、その分家族を扶養するための手厚い福祉が提供されてきたのである。吉田(1996)を参照。
(107)ここでの「カゾク」とは、〈郊外〉化とともに急速に拡大した、いわゆる夫婦と子どもを中核とした「近代家族(核家族)」のことを指している。重要なことは、ここでの家族が、その存在基盤を地域社会にではなく「カイシャ」に置くものであったこと、また「経済活動」を除く、生活に伴うあらゆる雑務を全面的に負担すること――そこでは一般的な家事や育児、介護のみならず、感情的、情緒的な満足を提供することさえ求められた――によって、間接的に「カイシャ」そのものを支えてきた側面があったことである。木下監修/園井/浅利編(2016)、山田(1994)を参照。
(108)こうした〈郊外〉の「浮遊性」は、これまでも数多くの人々によって論じられてきたと言えるだろう。例えば小田光雄は、伝統的な町や村が数100年にも及ぶ労働と生活の集積のうえに成立してきたのに対して、〈郊外〉とは、大量生産、大量消費に基づく資本の論理によって成立した商品としての場、言ってみれば「住むことの思想が最初から捨象された空間」(小田 1997:239)であったと述べている。また三浦展(2004)は、〈郊外〉的世界の一律的な均整化から、それを、ファストフードを捩って「ファスト風土化」と呼び、篠原雅武(2015、2016)は、〈郊外〉的世界の異様さとして、人間の気配と連動することのない「停止した完成品」のごとき性格、一切のノイズの存在を否定する形で繕われた虚構の完璧さなどについて指摘している。
(109)見田(1995)、大澤(2008、2009)を参照。例えば見田は、当時の映画、舞台、詩などに言及しつつ、それを「現実自体の非・現実性、「不・自然性」、虚構性……最も基底の部分自体が、虚構として感覚される……リアルなもの、ナマなもの、「自然」なものの「脱臭」」といった時代感覚として述べている(見田 1995:28、29、32)。
(110)シンガーソングライターの尾崎豊は、80年代の若者を中心に熱狂的に支持され、若くして急逝したが、彼が『LOVE WAY』(1990)や『誰かのクラクション』(1985)といった楽曲を通じて表現しようとしていた愛や孤独や矛盾もまた、こうしたものであったと言えるのかもしれない。
(111)詳しくは岡本(2018)を参照。
(112)当時の人々の「狂騒」を象徴するのは、前述した東京芝浦のディスコ「ジュリアナ東京」において、「ワンレン/ボディコン」の女性たちが「お立ち台」なる舞台に登り、羽根つき扇子を片手に踊り狂う様子であるだろう。他にも当時の「狂騒」を感じ取ることができる映画作品として、スキーブームの火付け役ともなった『私をスキーに連れてって』(馬場康夫監督、1987)や、“レジャー化”した就職活動を描いた『就職戦線異状なし』(金子修介監督、1991)などがある。
(113)例えば1988年の「リクルート事件」は、「政治とカネ」をめぐる腐敗が自民党の深部にまで及んでいることを人々に印象づける、戦後最大級の贈賄事件であった(小林 2014)。またバブル期には地価や株価が上昇し続けたため、多くの人々が投資などの“財テク”に殺到した(岡本 2018)。
(114)『この世は金さ』(1972)は忌野清志郎の楽曲であるが、「第三期」には尾崎豊の『ダンスホール』(1984)やエレファントカシマシの『デーデ』(1988)のように、“カネ”がすべてではないと確信しながらも、“カネ”がすべてとなっている現実もまた否定できないという複雑な心情が数多く歌われていた。
(115)このことは、【注105】で見た“マイホーム神話”や“家族神話”が解体したことを意味していた。その象徴として、前述の見田(1995)や大澤(2009)が好んで取りあげるのが、『家族ゲーム』(森田芳光監督、1983)という映画作品である。彼らはそこに、家族という最も「実体的」、「生活的」、「リアル」であるはずのものが虚構として感受されている現代社会の実像を読み取ったが、それはかつての過度に偶像化された理想に対する反動でもあったのだろう。
(116)ここでの「世紀末の〈隠者〉」たちとは、いわゆる“オタク”――仲間内で相手を「御宅」と呼ぶところから、「特定の分野・物事には異常なほど熱中するが、他への関心が薄く世間との付合いに疎い人。また広く、特定の趣味に過度にのめりこんでいる人」(『広辞苑』 2018)――と呼ばれた人々だけを指しているのではない。路地裏に身を寄せる非行少年であろうと、思想家や芸術家であろうと、さまざまな事情から狂騒に“ノル”ことができなかった人々はすべて、ここでの〈隠者〉としての素質を備えていたと言えるからである。
(117)宮台真司は、自ら〈隠者〉としての感覚を次のように語っている。「確かに私たちは上の世代と比べられ、70年代前半には「シラケ世代」と呼ばれている。だが、むしろ「輝かしさ」を夢見た世代だったからこそ、革命幻想を生きた団塊の世代への羨望ゆえに、屈折したのである。……私たちの世代の一部が、80年代末から自己改造やヒーリングや新興宗教のなかに自己を閉ざさざるをえなかった理由は、もはや明らかである。「終わらない日常」に適応し損なった私たち世代は、もはやありえない輝かしさを、「自分のなかのまだ磨かれていないダイアモンド」に、あるいは「必ずおとずれる未来の救済の日」に託さざるをえなかったということなのだ」(宮台 1998:100-101)。「私たちの時代には「良きことをしたい」という良心への志向が強ければ強いほど、「何が良いことなのか分からない」という不透明感が切迫し、透明な「真理」への希求が高まる。その結果、たとえば彼らが救済という「良きこと」に向けて強く動機づけられていればいるほど、児戯のようなフックに引っかかって世界観を受容する」(宮台 1998:62)。
(118)「地下鉄サリン事件」は、1995年に新興宗教団体のオウム真理教が、「世界の救済」を理由に地下鉄に猛毒サリンを散布し、多くの死傷者を出した事件である。特に事件に使用された薬物が有名大学出身のエリートたちの手によって製造されたことに、当時の人々は衝撃を受けた。この事件については、大澤(2009)、宮台(1998)、森岡(1996)など、多くの人々がその時代的意味をめぐって分析を試みてきた。それらに共通しているのは、この事件が「異常者」による犯行というよりも、同時代を生きる人々が同じように直面していた“生きづらさ”を出発点としており、人生の巡り合わせによっては誰もがその当事者になりうるものであったという指摘である。例えば森岡(1996)は、「生きる意味や目的」に悩み、世界や宇宙、自分といった“謎”の答えを科学に期待したがゆえに挫折した自らの経験を引き合いに、それがなぜ理系学生であったのかということについて述べている。そして競争に駆り立てる当時の社会において、常々そうした切実な問いが「余計なこと」として切り捨てていくなか、そうした問題を追及する窓口となるものが「宗教」しか残されていなかったということについて指摘する。オウム真理教の教団としての素顔については、森(2002)も参照のこと。
(119)「二四時間戦えますか」は、1988年にテレビCMとして放送された栄養ドリンク「リゲイン」のキャッチコピーである。今日の感覚では異常に思えるかもしれないが、当時の日本は活力に溢れ、猛烈社員として会社に身を投じていくことは決して不自然なことではなかった(岡本 2018)。そして女性たちにとっては、それが感情管理を要求される「カゾク」についても言えることであった。広井良典(2006)は、「伝統的共同体」というムラを捨てた人々が、今度は都会に「カイシャ」と「核家族」という新しい「ムラ」を築いたと述べたが、それは福祉の実現という意味においても、また凝縮された〈共同〉の負担という意味においても納得できる指摘である。
(120)この時代、人々の福祉は潤沢な国家行政サービスと堅固な企業福祉によって保障されていた。このとき国家や社会は、人々にとって自身を抑圧する存在でありながら、同時に自身が寄りかかることのできる頼もしい存在でもあったのである。「第三期」の人々にはまだ、世間を嘲笑し、なし崩しに批判し、「逃走」を語っていられるだけの余裕があったとも言えるだろう。
(121)ここでの「消極的な〈信頼〉」の形をより直接的に表現するなら、例えば身近に接する人々に対して、「困ったときはお互い様」、「それがものの道理というもの」、「それは人としてやってはいけない」といった言葉が通用すると思えるような素朴な信念と言っても良いだろう。われわれは【第八章】においてさまざまな〈信頼〉の形について見てきたが、それは「集団的に共有された人間一般に対する〈信頼〉」を土台に、「共有された意味に対する信頼」(あるいは隣人という形での「〈間柄〉に対する信頼」)が混ざり合ったものだと言えるかもしれない。それが成立するためには、少なくとも相互扶助を行うことが〈間柄規定〉として共有され、同時に〈共同〉を行う「意味」や「技能」が集団内で共有されていなければならないだろう。こうした〈信頼〉の形は、長年の〈共同〉の積み重ねを通じて、その集団内に徐々に形作られてきたものである。なお、ここでそれを敢えて「消極的な〈信頼〉」と呼んだのは、見方を変えれば、それがそのままわれわれが“世間の目なざし”や“同調圧力”と呼んできたものに相当するとも言えるからである。しかし厳密に言えば、「集団的に共有された人間一般に対する〈信頼〉」のすべてが、ここで言う「消極的」なものとは限らない。例えばそのなかには、〈共同〉の経験から「具体的な他者に対する〈信頼〉」を積み重ねることによって獲得されていく、もうひとつの〈信頼〉の形がある。それは、「人間という存在に対する〈信頼〉」へと向かっていく、潜在力を秘めた〈信頼〉の形に他ならない。