用語解説
〈共同〉 【きょうどう】
- 「ここでは改めて、本書における〈共同〉の概念について整備してみよう。まず〈共同〉とは、「複数の人間が何かを一緒に行うこと」を指すのであった。……ただし、この規定だけでは、人間存在の〈共同〉を捉えるにあたって未だ不十分である。なぜなら〈共同〉とは、人間存在が〈他者存在〉とともに何かを協力して実践していく行為であるだけでなく、ここで見てきたように、それに伴って必然的に発生する負担をともに引き受け、そのうえで何かを実現させていく行為だからである。」 (上巻 260)
人間存在の根本原理のひとつで、本書では「複数の人間が何かを一緒に行うこと」と定義される。
共同の概念には、もともと「何かを一緒に実行する」といった“行為”に重点を置く意味合いと、「同等の資格」といった“状態”に重点を置く意味合いが同時に含まれていたが、日本の人文・社会科学においては、共同を「相互扶助的で共感的なあり方」や「社会性一般」と置換可能な後者の意味合い(共同性)として用いられてきた側面がある。
しかしこうした用法は「牧歌主義的―弁証法的共同論」がもたらしたさまざまな矛盾を反映しており、本書ではむしろ“行為”としての意味を強調する形で「共同行為」としての〈共同〉と呼ぶ。〈共同〉を実践することは人間の本性に基づくものの、その行為の成立は無条件に実現するわけではない(「100人の村の比喩」)。
十全な形で〈共同〉を実現するには、「人間的〈関係性〉」の文脈で言えば、「意のままにならない他者」との〈関係性〉がもたらす負担を乗り越えるだけの求心力がなければならず、そこには少なくとも「〈共同〉のための事実」の共有、「〈共同〉のための意味」の共有、「〈共同〉のための技能」の共有といった契機が不可欠となる。
それでも〈共同〉の負担がゼロになることはなく、「人間的〈生〉」を実現するためには、自らの意に反すること、納得が得られていないことであっても〈共同〉しなければならないときがあり、また嫌な人間、馬の合わない人間とも〈共同〉しなければならないときもある。
そうしたなかで人間存在が、〈共同〉の負担を少しでも緩和させようとして構築してきた知恵(「〈共同〉のための作法や知恵」)こそが、〈役割〉、〈信頼〉、〈許し〉といった原理に他ならない。なお、こうした〈共同〉のための条件が崩壊し、〈共同〉のための作法や知恵が失われていくことで、「共同行為」自体が成り立たなくなっていくこともまた、〈自己完結社会〉の一つの本質的な側面である。