用語解説
「担い手としての生」 【にないてとしてのせい】
- 「ある者たちは、そうした自らの境遇を嘆き、世間をいつまでも呪って生きるだろう。だが、それだけでは何も変わらない。それゆえ人間は、その逃れられない現実のなかにこそ、自ら積極的な“意味”を見いだそうとして生きてきた。そしておのれが置かれた状況を自ら引き受け、そのなかでのより良き〈生〉を目指して生きてきたのである。……それが〈役割〉へと転移するとき、その「共同行為」は、〈役割〉を引き受けたものたちにとって独自の、そして唯一のものへと変容するのである。したがって〈共同〉に参加するものたちが、そこに何らかの〈役割〉を見いだし、そこで「担い手」としての〈生〉を生きようとするとき、その〈共同〉は概して堅固なものになると言える。」 (上巻 266-267)
「〈共同〉のための作法や知恵」としての〈役割〉の原理に深く関わる〈生〉の形態で、とりわけ〈共同〉に臨む際に、自らに割りあてられたものを単なる強制と見なすのではなく、そこに自ら積極的な意味を見いだし、そこから「より良き〈生〉」を希求しようとする態度や「生き方、あり方」のこと。
一般的に“役割”は、外部から付与されるもの、受動的なものとして捉えられるが、「人間的〈生〉」においては、人が自ら何らかの役割を見いだし、自ら引き受けるという局面が存在する(人間的現実においては、何事にも100%の強制や100%の自発性はありえず、常にその両側面が存在する)。
役割分担の公正性を問い、そのあり方を見直すことは必要であるが、避けられない〈共同〉の場面において問われるのは、その現実といかに向き合い、前を向いて進んで行くことができるのかということである。
また、人間存在が世代や世俗、時代を超えた何ものかを引き受けようとするとき(「世間や世俗、時代を超えた〈役割〉」)、そこでの「担い手としての生」は、〈存在の連なり〉を生きることそのものを意味することになる。
西洋近代哲学における理想的な人間、とりわけ〈自立した個人〉の思想においては、「人間的〈生〉」を取り巻く「意のままにならないもの」を権力や抑圧、強制や暴力として一面的に規定し、そうしたものからの解放ばかりに焦点をあてる傾向があった。
しかしそうしたアプローチだけでは、人々は避けられない〈共同〉と自らどう向き合うのかという現実的な問題(あるいは人間である限り「意のままにならない他者」との〈共同〉が避けられないという根本的な問題=〈有限の生〉の第三原則=「意のままにならない他者の原則」)への対処方法が見いだせなくなるだろう。