ディスカッション


未来世界を哲学する―環境と資源・エネルギーの哲学)
未来世界を哲学する
環境と資源・エネルギーの哲学


〈自己完結社会〉の成立(上)
上柿崇英著


〈自己完結社会〉の成立(下)
上柿崇英著

環境哲学と人間学の架橋(上柿崇英 
/尾関周二編)
環境哲学と人間学の架橋
上柿崇英/尾関周二編


研究会誌『現代人間学・
人間存在論研究』

   

用語解説

   

〈無限の生〉(の「世界観=人間観」) 【むげんのせい】


 「本書がここで、改めて「世界観=人間観」に着目するのは、この急速に進展していく〈生活世界〉の構造転換の背後にあって、〈自己完結社会〉の成立を強力に推し進めてきた、ひとつの「世界観=人間観」が存在するということを示すためである。それは〈無限の生〉、すなわち「意のままになる生」こそが人間のあるべき姿であると考え、人間の使命とは、それを阻む「意のままにならない生」の現実を改変し、克服していくことであると考えるひとつの「世界観=人間観」に他ならない。」 (下巻 110



 われわれのうちに深く内在し、われわれが物事を認識、判断する際に影響を及ぼす信念の体系(「世界観=人間観」)の一類型で、目の前にあるこの世界の現実=「意のままにならない生」は、人間が思うあるべき形(「本来の人間」の形)に相応しく改変されるべきであり、またそうした理念の具現化(現実化)こそが人間の使命であると考える「世界観=人間観」のこと。

 〈無限の生〉という響きは一般的に“永遠の命”連想させるが、ここでの無限とは、あくまで想像された理念を際限なく現実化させられることを指している(ただし結果として、マインドアップローディングのような形で“永遠の命”を求めることは自体はありえる)。

 この「世界観=人間観」はいくつかの段階を経ながら展開されてきた。まず、その出発点は「時空間的自律性」「約束された本来性」という特異な人間理解を前提とした「自由の人間学」にあったが、そこで希求された「政治的自由」が、「存在論的自由」(人間存在は自らの存在を規定する外力(「存在論的抑圧」)から解放されるべきだとする)へと拡張されたとき、この「世界観=人間観」はひとつの明確な輪郭を持つようになった。

 〈無限の生〉の「世界観=人間観」は、その後K・マルクス(K. Marx)を頂点として、「存在論的自由」を勝ち取る“人類の物語”として語られてきたが、「大きな物語」の失墜以降は、「自由な個性」「かけがえのないこの私」という形で“個人の物語”として再編されるようになった。

 つまりここでは、個々人が自らの存在のあり方を自己決定できる「自己実現」こそが「人間的〈生〉」の最高善として位置づけられ、「意のままにならない他者」「意のままにならない身体」からの解放に貢献する〈生の自己完結化〉〈生の脱身体化〉もまた、必然的に望ましいものとして促進されることになる。

 他方でこの「世界観=人間観」は、現実の外部にある理念から出発して、理念に即して現実を価値づけるため、「現実を否定する理想」の形態を取ることになる。ところが「存在論的抑圧」をどれほど取り除いたところで、〈生〉の現実が完全な「意のままになる生」をもたらすことはありえず、ここに絶え間なく現実を否定し続けなければならない「無間地獄」を引き起こすことになる(〈自立した個人〉の思想や「ゼロ属性の倫理」が内在していた矛盾もまた、このように解釈できる)。

 特に〈生活世界〉の構造転換が進んで「〈ユーザー〉としての生」が拡大し、現実問題として、住むべき場所、携わるべき仕事、関わるべき他者など、個人的な〈生〉を形作るあらゆる事柄が自発性と自由選択に基づいてしかるべきだとの認識される時代になると、人々はかえって「意のままにならない生」の現実を肯定できなくなり、「こうでなければならない私」の理念を実現できない自らを責め、自己否定の感情を募らせるようになる(〈無限の生〉の敗北)。

 この矛盾の解決方法として、〈自己活社会〉を極限まで推し進め、技術的に「意のままになる生」を実現することは不可能ではないかもしれないが(〈無限の生〉の「ユートピア」)、それが実現することは、人間が自らを拘束する一切のものを持たない「思念体」になることを意味しており、今度は人々が生きる意味を見いだせなくなる事態となる。

 このアポリアを抜け出す手がかりとなるのは、〈無限の生〉がもたらす苦しみの本質が、そもそも現実の外部にある理念から出発したことによる自縄自縛の苦しみであることである(「皇帝の寓話」)。

 そこで本書では、改めて人間が人間である限り避けられない物事のことを〈有限の生〉と呼び(〈有限の生〉の五つの原則)、改めて〈有限の生〉から出発する人間存在の全体像を描くことを試みる(〈有限の生〉の「世界観=人間観」)。そして「意のままにならない生」を肯定していく〈世界了解〉を経て、なお「より良き〈生〉」を希求していく「現実に寄り添う理想」の形を提起する。