ディスカッション


未来世界を哲学する―環境と資源・エネルギーの哲学)
未来世界を哲学する
環境と資源・エネルギーの哲学


〈自己完結社会〉の成立(上)
上柿崇英著


〈自己完結社会〉の成立(下)
上柿崇英著

環境哲学と人間学の架橋(上柿崇英 
/尾関周二編)
環境哲学と人間学の架橋
上柿崇英/尾関周二編


研究会誌『現代人間学・
人間存在論研究』

   

用語解説

   

「第三期:高度消費社会の隆盛からバブル崩壊まで(1970年‐1995年)」


 「これに対して、本格的な構造転換が進んだのは「第三期」の時代であった。われわれはそこで、この時代に急速に拡大していった〈郊外〉という社会空間について着目しよう。というのもこの〈郊外〉こそ、隆盛していく〈社会的装置〉の“付属物”として形作られ、それゆえ〈存在の連なり〉から本質的に浮遊した社会空間であったこと、そしてそれが住民相互の〈共同〉をはじめから想定していない――つまり「〈共同〉のための事実」が成立しない――きわめて異質な地域社会として成立したものだったと言えるからである。」 (下巻 15



 〈自己完結社会〉が成立していく様子を、日本社会の具体的な歴史過程に即して論じた「〈生活世界〉の構造転換」のうちの第三の期間で、「一億総中流社会」と「経済大国」の実現にはじまり、プラザ合意後の狂騒的な消費社会化、バブル経済の崩壊まで(1970年‐1995年)の期間のこと。

 思想史的には、豊かな生活と経済的な繁栄の影で生じた社会病理に注目が集まり、ソ連の権威喪失後に人間論としてのマルクスを希求した「第二次マルクス主義」による「疎外論」「自由な個性の全面的な展開」という課題、消費社会の進展に伴って「大きな物語」の解体を謳った「ポストモダン論」が流行するなど、「繁栄と動揺の時代」によって特徴づけられる。

 加えて〈生活世界〉の実態としては、「〈生活世界〉の構造転換」が最も顕著に進み、「〈ユーザー〉としての生」が全面化した時期に相当する。そのことを象徴するのは、隣人同士の〈共同〉がそもそも想定されていない異質な地域社会としての〈郊外〉の成立であり、こうした〈郊外〉は、「第二期:戦後復興から高度経済成長期まで」〈旅人〉たちの定住化としても理解することができる。

 人々は〈郊外〉での生活に、かつての〈共同〉に彩られた〈生活世界〉では手に入らない、健康で文化的で、プライバシーをも尊重される夢の生活を投影したが、その理想があまりに偶像化されていたために(マイホーム神話など)、現実にかえって幻滅する側面もあった(家庭内暴力や“いじめ”が問題化されたのもこの時代である)。

 豊かな暮らしの背後で人々が感じていた漠然とした虚構感(嘘くささ)や浮遊感は、「〈ユーザー〉としての生」が成立するに伴って、「〈生活世界〉の空洞化」が生じるとともに、「人間的な〈生〉」の現実が「経済活動」「自己実現」「学校教育」といった形で矮小化されていく「〈生〉の不可視化」の結果でもあったが、それは〈自立した個人〉、「自己実現」を至上とする「〈ユーザー〉としての自由と平等」が着実に実現していくことの裏返しであった。

 人々が感じていた社会的な一体感やモラルの低下は、かつての〈生活世界〉が担保していた「〈共同〉のための事実」が共有されなくなってきたことの現れでもあり、〈共同〉のための人間的基盤は、地域レベルでは瓦解しつつあったものの、企業や家庭の内側に目を向けてみると、そこには「24時間闘う」ことが要求される濃密な〈共同〉の世界が存続していたと考えることができる。