用語解説
〈自己存在〉 【じこそんざい】
- 「われわれが「私」だと認識しているものは次のように規定することができるだろう。すなわち〈自己存在〉とは、生物個体としての境界によって、身体という〈他者存在〉を内に含みつつも、生受において避けがたく数多の〈他者存在〉と結ばれることによって形作られてきた何ものか、そして無数の〈他者存在〉との間に、「〈我‐汝〉の構造」を通じて無数の「私」として現れたものの総体、それをあくまで漠然と捉えたものである、というようにである。」 (上巻 210)
われわれが“私”と呼ぶものを存在論的に捉えた概念で、自我にも、個体にも還元できない、無数の〈他者存在〉との「〈我‐汝〉の構造」を通じて現れた、無数の「私」を総体として漠然と捉えたものと定義されるもの。
しばしばわれわれは〈自己存在〉を〈他者存在〉から独立したものとして捉え、そうした個体に還元された自己が、揺るがない一貫性を伴って個々の〈他者存在〉と〈関係性〉を結ぶものだと理解している。
しかし本書の理解は異なり(それは〈自己存在〉ではなく自我である)、〈自己存在〉は〈他者存在〉から独立して存在しえず、無数の〈他者存在〉を横断する形で一貫する「私」もまた存在しない。むしろ私は〈他者存在〉との〈関係性〉を通じて「私」になるのであって、〈他者存在〉と取り結ばれた「意味のある〈関係性〉」の数だけ、「私」もまた存在すると理解される。
本書では、そうした無数の「私」を便宜的に、あたかも実体あるものとして捉えたものが〈自己存在〉だと位置づけられる。〈社会的装置〉に依存する「〈ユーザー〉としての生」が拡大すると、人々は何にも縛られることのない「ありのままの私」の概念とともに、こうした〈関係性〉の網の目(「〈関係性〉の場」)から切り離されてもなお成立しうると錯覚された虚構の自己概念(「この私」)を持つようになり、また自身にとって都合の良い他者とのみ関わりたいと願うようになる。
しかし「意のままになる他者」との間に「意味のある〈関係性〉」は成立せず、したがってそこには「意味のある私」もまた成立することはない。