『〈自己完結社会〉の成立』(上巻)
【序文】――はじめに(その1)
2016年の秋、神戸新聞の読者投稿欄にある記事が載せられた(1)。投稿者はマンションの管理組合理事をとつめており、そのマンションでは住人同士が挨拶をすることを禁止する告知を出すことになったという。小学生の子どもを持つ親からの提案で、子どもには知らない人間から声をかけられたら逃げるように教育している、誰が住人であるかを子どもは判別できないので挨拶自体を止めてもらいたいとのこと。年配の方も、以前から挨拶をしても返してもらえないことを不愉快に思っていた、そうしましょうと意見の一致を見たらしい。
「理解に苦しんでいます」と題されたその記事内容が、はたして事実かどうかは分からない。しかし現代社会においては、こうした事態が生じる素地は十分にあると筆者は感じている。というのも、それは本書が〈自己完結社会〉と呼ぶ、ひとつの社会様式の出現、ひとつの人間の存在様式の成立について、図らずもその一端を象徴するものだからである。
本書の主題となる、〈自己完結社会〉の成立とは何を意味するものなのだろうか。
それは第一に、われわれが高度化した社会システムへの依存を深めることによって、結果的に目の前の他者、物理的に接触する生身の人間に対して、直接的な関わりを持つ必然性を感じられなくなっていく事態を指している。
実際今日のわれわれは、街角ですれ違う人間だけでなく、隣近所の人間に対してでさえ、なるべく関係性が形成されないように振る舞っている。われわれは相手がどのような人間なのかを互いにほとんど知らないうえ、何より関わることで生じる未知のリスクを恐れている。
そもそも現代のように情報化が進んだ社会においては、“お金”を手に入れる手段さえ確保できれば、究極的にはすべてのリアルな関係性を断ち切ったとしても、生きること自体に支障はない。必要なもの、欲しいものはすべて大手通販サイトからクリックひとつで入手できるし、多少の寂しさや味気なささえ我慢すれば、「twitter」や「YouTube」を通じて他者と関わること自体は十分に達成できる。
いやむしろ、その方が面倒な気遣いをしなくてすむし、嫌な相手をブロックすることもできるだろう。これはお互いにとって、実に都合の良い仕組みなのである。こうした人間のあり方のことを、本書では〈生の自己完結化〉と呼んでいる。
そして〈自己完結社会〉にはもうひとつ、本書で〈生の脱身体化〉と呼ぶ事態が含まれている。
それは主として科学技術の進展によって、われわれが“身体”という鎖からますます解放されるということ、そしてそれに伴い、身体に由来するさまざまな事柄が従来の意味を失っていくことを指している。
例えば近年、情報技術と並んで顕著なのは、ロボット/人工知能技術や生命操作技術だろう。前者で言えば、とりわけ人工知能やそれに伴う機械の自動化が目覚ましい。レジの会計から自動車の運転、さらには家事や介護に至るまで、いずれは機械が代替してくれる時代がくるかもしれない。自分に相応しい商品、相応しい医療、あるいは相応しいパートナーでさえ、機械が探しだしてくれることが当然となる時代がくるかもしれない。
後者の生命操作技術で言えば、とりわけ医療の分野が目覚ましい。今後注目されるのは、単なる老化の防止を超えた“若返り”を可能にする技術である。また、体細胞を用いた人工生殖が可能になれば、同性カップルでも子どもを持てる日が来るかもしれない。そしてゲノム編集は将来的な疾患を予防するだけでなく、受精卵に施せば、望み通りの子どもを「カスタマイズ」できることを意味するだろう。
こうした技術の趨勢に潜んでいるのは、いずれも人間がますます自らの身体を用いる必然性を喪失していき、同時に身体そのものが望む形にコントロールできるものになっていくということである。しかしそれと呼応するかのように、男性であること、女性であること、老いるということ、結婚すること、そして子孫を産み育てるといったことの意味もまた、従来の必然性を失っていくのである。
加えてこうした〈生の自己完結化〉と〈生の脱身体化〉は、実際には相互に深く結びついていると言える。というのも〈生の脱身体化〉が進めば進むほど、人間の生はますます「自己完結化」していくだろうし、〈生の自己完結化〉が進めば進むほど、人々はますます自らの「脱身体化」を求めるようになるからである。
例えばロボット/人工知能技術は、将来的に人間の姿を模したアンドロイドを供給するようになるかもしれない。
家族の一員であるペットに代わって、今度は糞もしなければ嫌な臭いも発しない、人間そっくりのロボットが「家族」となる。ともに暮らす相手がロボットであれば、われわれは自らの身体に気を配る必要などないだろう。ロボットはパートナーの容姿を気にしないだろうし、実際の年齢や性別がどうであるのかについても関心を持たない。身体というものが意味を失う点においては、これもまたある種の〈生の脱身体化〉なのである。
人工知能を搭載したロボットは、望み通りの容姿で、望み通りの言動をごく自然に返してくれるだろう。優しく労りの声をかけ、決して批判することもなく、本人が望むのであれば怒ったり、反発したりさえしてくれるかもしれない。そしてもし、ここでその人がロボットとの生活を選択し、ロボットという「家族」が存在するがゆえに、意のままにならない生身の人間を疎ましく思うのであれば、これもまたある種の〈生の自己完結化〉である。
そして一度ロボットに依存するようになった人間は、ますます生身の人間と関わっていく自信を失うだろう。リアルな人間と関わるためには、自分の身体のことを気にかけなければならない。相手もまた生身の身体を持つ者だからこそ、さまざまな気配りが要求される。加えて生身の人間は、自分のことを批判してくるかもしれないし、嫌みを口にし、悪意を持って傷つけようとしてくるかもしれない。
それならいっそのこと、生身の他者とはますます関わらずにすむ方が良いのではないだろうか。こうして人々が身体の意味を消してくれる新しい道具、新しい機械にますます依存するようになるのだとすれば、これもまた新たな〈生の脱身体化〉だと言えるのである。
もちろんこのような話し方をすると、〈自己完結社会〉の成立は、現実のわれわれとは離れた、どこか遠い未来の出来事であるかのように感じられるかもしれない。
しかしそうではないのである。例えば先のアンドロイドを“インターネット”に置き換えてみればどうだろうか。実際今日の社会において、われわれは電子空間上にバーチャルな関係性をいくらでも気軽に築くことができる。しかしそのことが、かえってリアルな関係性の必然性を低下させている側面はないだろうか。
またネットを介した関係性が気軽なのは、それが匿名性を持つからだけではなく、ある面において、まさしく身体の意味を消してくれる道具だからであるようにも思える。その意味においては、インターネットはアンドロイドの先駆を成しているとも言えるのであり、ここでは先の〈生の自己完結化〉と〈生の脱身体化〉をめぐるサイクルが、すでに現実のものとなっている側面があるのである。
こうした事態を内包する〈自己完結社会〉であるが、そのひとつの本質は、われわれが自らの生、つまり生きることを、高度な社会システムに全面的に委ねてしまうことにある。
ここでは社会システムという表現を用いたが、それは科学技術のもたらす無数の「モノ」、例えば情報、機械、薬剤といったものの巨大な集積物であると言っても良い。この社会にはそうした「モノ」の集積物が、市場経済、官僚機構、ネット空間(情報世界)と複雑に融合する形で、アメーバのように、生活空間のいたるところに隙間なく浸透している。
本書ではその巨大な何ものかのことを〈社会的装置〉と呼ぶ。そしてわれわれはこの〈社会的装置〉にひとりひとりばらばらに結びつき、もはやそれなしでは生きられないほどに深く依存しているのである。
想像してみてほしい。空を覆い尽くすほどに巨大な歯車があり、人間は投げ縄を掛けるようにして、ひとりひとりが別々にそれにぶら下がっている。人々は縄が切れれば落ちて死んでしまうが、逆に縄さえしっかりとしていれば、歯車は人々が必要としているものを何でも与えてくれる。〈社会的装置〉とは、現代社会を生きるわれわれにとって、いわばなくてはならない巨大な「インフラ」なのである。
しかしこの〈社会的装置〉への依存こそが、〈生の自己完結化〉と〈生の脱身体化〉を引き起こしている。つまりわれわれの生から、生身の他者と関わっていくことの意味、そして自分が身体を持つ存在であることの意味を消し去っていくのである。
また〈自己完結社会〉の成立は、おそらく現代人の抱えるある種の“苦しみ”と無関係ではない。
例えば現代人の抱える代表的な悩みや苦しみは、対人関係によって象徴されるものだろう。会社の上司や部下、同僚、クラスメート、家族、友人、恋人、状況はさまざまではあるが、ストレスをもたらす局面には似通った傾向がある。それは負担となる何ものかを共有したり分け合うこと、何かを決定したり合意形成したりすること、互いの望む距離感を相手に伝えること、あるいは悪意を持った相手をやり過ごすといった、いずれも形だけの関係性から一歩踏み込み、人間的に向き合うことが求められる局面である。
職場の人間関係のように、関係性に特別な理由がある場合ならまだましだろう。そうでなければ関係性を維持していくのはより困難となる。もとより新たな関係性を構築しようと思えば、そこにはよほどのきっかけがなくてはならない。
こうした対人関係をめぐる問題の背後には、おそらく先の〈生の自己完結化〉が深く関わっている。
例えばかつて、誰かと会うこと、会って会話をすることは、それ自体でひとつの娯楽であった。誰かを訪ねること、話しかけることに特別な理由は不要であった。これに対して現代の関係性には、いちいち理由が必要になる。外出する理由、誰かに会いに行く理由、会話をする理由、そしてその人と友人でいることの理由。特別な理由がなければ関係性を維持できない。
しかし考えてみれば、そもそも関係性に理由が必要であるということ自体が、その関係性にわれわれが必然性を感じていないということの表れではないだろうか。〈社会的装置〉への依存によって、われわれは生身の他者と直接関わらなくても本質的には生きていける。互いにそうした前提を共有しているために、容易に相手を信用できず、また些細なことで不安になるだろう。
その関係性に必然性がないと感じているからこそ、相手の負担とならないように、恐ろしいまでに気を遣ってしまう。そしておそらくそれゆえに、互いに向き合うことが求められる場面に遭遇しても、皆が相手に拒絶されることを恐れて踏みだせないのである。
本書では、こうした事態のことを〈関係性の病理〉と呼ぶ。それは、不用意に他者に介入することへのわれわれの異常な恐れ、互いに負担をかけまいと行使される異常なまでの気遣い、そして関係性を維持することにも、構築することにも多大な困難を抱えて苦しむわれわれの姿に他ならない。
ただし、〈自己完結社会〉がもたらす「病理」には、もうひとつ別の種類のものがある。
例えば現代人は、自分がなぜ生きているのか、何のために生きるのかといった、生きる意味や実感を容易に得ることができない。もちろん、繰り返される毎日に苦労がないわけではないだろう。日々トラブルは発生するし、何かが報われれば一定の達成感だってあるはずである。また、楽しみがないというわけでもない。この社会では、ある程度頑張ることができれば、自分の気に入ったものを買い集め、それらを鑑賞することは容易だからである。
しかしそのような生のなかにあって、どこか嘘臭さがある。言い換えるなら“虚無”がある。そこにはすべてが無意味であると思えるような、ある種の存在論的な苦しみがあるのである。
そもそも、人間存在の生きる意味とは何だろうか。この問いに対しても、われわれには一応シンプルな答えが用意されている。それは「自己実現」をすること、つまり自分自身がなりたいと思う理想の自分になるということである。
しかし少なくない人々が、叶えるべき夢自体を見いだせないと言う。かろうじて「なりたい自分」を見つけた人間であっても、そのほとんどは何らかの現実に直面して挫折を余儀なくされるだろう。そこで人々は、かけがえのない存在であるはずの「この私」をめぐって葛藤する。
例えば「この私」が、世間や他人のせいで「ありのままの私」でいさせてもらえないと感じるようになる。そして「自己実現」が上手くいかないのは、最終的には自分のせいであって、自身が駄目な人間であるからだと感じるようになるのである。
こうした存在論的な苦しみの背後には、おそらく先の〈生の脱身体化〉が深く関わっている。
例えば〈生の脱身体化〉が進むと、生活のあらゆる局面に〈社会的装置〉が入り込むようになり、身体を活用した直接的な経験はますます縮小することになるだろう。
実際われわれは、本当の意味において汚いもの、臭いもの、痛いもの、醜いもの、残酷なものに触れなくてすむためのさまざまな機構に囲まれて生きている。また〈生の脱身体化〉が進行すると、われわれは自らを規定しているさまざまな現実的な制約からますます解放されるようになるだろう。そこでは携わるべき仕事、住むべき場所、関わるべき他者、そして結婚や出産、育児に至るまで、生を規定するあらゆる物事がますます自由選択へと移行していくのである。
そのためだろうか。温室育ちのわれわれは、心の何処かで生とは本来、すべてが自己決定されるべきものであると思い込んでいる部分がある。「意のままになる生」こそが、人間存在のあるべき生の形だと考えるようになっているのである。
しかし直面する人間的現実は、結局のところ「意のままにならない生」であるがゆえに、人々は理想と現実とのあいだで引き裂かれ、苛立ち、悩み、傷ついているように見えるのである。
本書では、こうした事態のことを〈生の混乱〉と呼ぶ。それは生きる意味と生の実感とに思い悩み、何もかもが実現されるべきだと望むがゆえに、等身大の人間存在を肯定することができないわれわれの姿に他ならない。
本書では、こうした事態をもたらす〈自己完結社会〉の成立について、その“意味”を徹底して掘りさげていくことにしたい。
例えば前述のように、情報技術、ロボット/人工知能技術、生命操作技術をはじめ、現代科学技術は刻一刻と〈生の自己完結化〉と〈生の脱身体化〉を促進させているだろう。そのスピードは、まさに加速度的に速くなっているのであり、このことはわれわれが近い将来、よりいっそう深刻な〈関係性の病理〉や〈生の混乱〉に直面していくだろうことを十分に予感させる。
とはいえここで、いくつかの疑問も生じてくるはずである。例えば〈生の自己完結化〉と〈生の脱身体化〉は、いつ始まったものなのだろうか。
前述のように、〈自己完結社会〉が科学技術やそれがもたらす無数の人工物によって支えられていることは疑いない。しかし“技術”によって自然物を加工すること自体は、人間の本質、人間の本性であるとは言えないのだろうか。そうだとするなら、人類が最初の石器を製作し始めた250万年前から、われわれは少しずつ〈生の自己完結化〉と〈生の脱身体化〉を進めてきたことになるのだろうか。
同様に、〈自己完結社会〉の成立には、確かにわれわれの徹底的な〈社会的装置〉への依存が深く関わっている。しかし人間は、太古の時代から巨大な都市を建設し、社会制度や抽象的なシンボル、宗教的世界観などを発達させてきた。自ら生みだした「社会的なもの」に依存し、それによって生を実現させること自体は、やはり人間の本性だと言えるのではないだろうか。
そうすると〈自己完結社会〉は、例えば太陽神を崇めていた古代エジプト社会と何が異なっているのだろうか。さらに言えば、先の〈関係性の病理〉や〈生の混乱〉についても、人が対人関係に悩むこと、あるいは生の現実に思い悩むこと自体は、有史以前から繰り返されてきたことであるはずである。そうであるなら、現代人の抱える苦しみは、物語として語り継がれてきた古の人々の悩みや苦しみと何が異なっているのだろうか。
おそらく〈自己完結社会〉の成立には、古の時代から脈々と繰り返されてきたある種の連続性と同時に、過去の時代とは一線を画した現代固有の特殊な事情とが両方とも深く関わっている。
だが、この問いに答えていくためには、われわれは一度、よりいっそう根源的な問いにまで遡らなければならない。例えば人間が造りあげる“社会”とは何か、人間が“生きる”とは何を意味するのか、そしてなぜ人間は“他者”と関わることに苦しみを伴うのか。そしてこうした問いの先のあるのは、そもそも「人間とはいかなる存在なのか」という問いであるだろう。
本書では〈自己完結社会〉の成立という事態の“意味”を問うために、いわばこの「人間とは何か」という最も根源的な問いから出発することになる。
そして人間を人間という存在ならしめている根源的な原理について、以下の三つのアプローチを用いて説明することになるだろう。
ひとつ目は「環境哲学」であり、ここでは環境との関わりを通じて人間が獲得した特殊性、生物存在としての人間の原理について考察することになる。
例えば人間は、自然生態系の上に「人為的生態系」としての〈社会〉を創造し、そのなかで生を営む生物である。しかも創造された〈社会〉は世代を越えて継承され、絶え間なく膨張、蓄積されていく。本書では、〈自己完結社会〉もまたその延長線上にあることを踏まえたうえで、その意味について考えていこう。
次に、ふたつ目のアプローチは「〈生〉の分析」であり、ここでは人間が“生きる”ということ、その〈生〉を成立させている根源的な原理について焦点を合わせることになる。
例えば人間の〈生〉には、時代や文化的背景を問わず、〈生存〉の実現、〈現実存在〉の実現、〈継承〉の実現という三つの契機が必ず存在している。しかしその実現の様式については、時代を通じて劇的な形で変容してきた。本書では、〈社会的装置〉への依存という問題を、こうした〈生〉の文脈から読み解いていこう。
三つ目は「〈関係性〉の分析」であり、ここでは人間というものの本質を、“自己”と“他者”が織りなす〈関係性〉の原理から考察することになる。
例えば〈自己存在〉というものが成立するためには、そこに〈他者存在〉がなければならない。しかし〈他者存在〉との〈関係性〉には必ず“負担”が伴う。そしてその負担をいかに乗り越えることができるのかが、他者とともに何かを実践すること、すなわち〈共同〉の成立に深く関わっている。本書では、このことを〈自己完結社会〉と関連づけ、そこから現代人の“苦しみ”の背景について考察しよう。
以上の分析から見えてくるのは、世代を超えて受け継がれていく〈社会〉というものを生みだして以来、自らの存在のあり方を繰り返し変容させてきたわれわれの姿、そして「農耕の成立」と「近代的社会様式の成立」に続く第三の特異点という形で、かつて人類が経験したことのない、まったく新しい時代の局面に突入しているわれわれの姿である。
一連の分析を経ることによって、はじめてわれわれは自らが置かれている時代の意味、そして直面している現実の意味について理解することができるだろう。そしてそれは、われわれが自らの抱える“苦しみ”の由来を知ることであるとともに、われわれが進みゆく〈自己完結社会〉と向き合っていくための手がかりを得ることでもあるはずである。
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(1)匿名による読者投稿「理解に苦しんでいます」『神戸新聞』(2016年11月4日、夕刊、6頁)。