ディスカッション



〈自己完結社会〉の成立(上)
上柿崇英著


〈自己完結社会〉の成立(下)
上柿崇英著

環境哲学と人間学の架橋(上柿崇英 
/尾関周二編)
環境哲学と人間学の架橋
上柿崇英/尾関周二編


研究会誌『現代人間学・
人間存在論研究』

   

用語解説

   

「自由な個性と共同性の止揚」 【じゆうなこせいときょうどうせいのしよう】


 「端的に言えば、それは当時の人々にとって「自由連帯の共同論」の核心部分、まさしく「自由な個性」と共同性が止揚された姿として映ったのである。このことを反映するかのように、「アソシエーション論」や「公共性(圏)論」においては、そうした新たな運動や組織が執拗なまでに共同体=「むら」と対比させられていた。すなわち共同体=「むら」が、「閉鎖性」、「同一性(画一性)」、「強制」、「個人の抑圧(全体主義)」によって基礎づけられるのに対して、「公共性(圏)」の担い手となるアソシエーションこそ、「開放性」、「多様性(複数性)」、「自発性」、「自由な個人による連帯」によって基礎づけられる、といった具合にである。」 (上巻 255



 「牧歌主義的―弁証法的共同論」の核心部分に位置づけられる理念で、求められるべきは単なる「共同体=むら」の復活ではなく、あくまで「自由な個性」と統合された新たな形態として共同性を再構築すること(止揚)であるとするもの。

 〈自立した個人〉に具体的なイメージを与えるものとしても重要な位置を占めてきた。90年代から2000年代にかけてNGO、NPO、ボランティア団体などが隆盛すると、まさしくそうした組織こそが一連の理念を体現しているとして評価されたが(「アソシエーション論」)、そこでの期待は現実との乖離を含み、今日から見れば過剰なものであった(とはいえ、「緩やかなつながり」や「開かれたコミュニティ」といった形で、この理念の派生物が同時代に希望を与えた側面は確かにあった)。

 この理念の致命的な弱点は、弁証法、あるいは止揚(一見相互に矛盾して見えるものでも、互いに優れた側面を出し合うことによって相互補完し、より高い次元においては統合される)という「魔術的なレトリック」そのものにあり、図式としては巧みで美しく見えるものの、そもそも矛盾し合うもの同士がなぜ統合可能だと言えるのかについては、往々にして説明が欠落してきたと言える。