『〈自己完結社会〉の成立』(上巻)
【第七章】〈関係性〉の人間学
(1)「人間的〈関係性〉」という視点について
さて、ここからわれわれは「〈関係性〉の分析」というアプローチについて詳しく見ていくことにしよう。「〈関係性〉の分析」とは、前述のように、人間存在の本質を、その存在が多彩に織りなす「〈関係性〉の構造」から理解するための方法論である。とはいえ、そもそも“関係性”とは何なのだろうか。
まず“関係性”とは、関係の性質、いわば関係のあり方のことを指している。“関係”とは、もともと「(何か)を結び付けている繋がりや関わり」のことであり、人間と人間の関係のみならず、「あるものが他のものに影響を及ぼす」という意味をも含んだ概念である(1)。
したがって存在論的な意味での〈関係性〉とは、何らかの存在が、別の存在と結びつくときのあり方のことであり、同時に存在と存在の結びつきにおいて現れてくる、何らかの影響や作用のあり方のことだということになるだろう。
とりわけ本書では、人間という存在にとっての〈関係性〉、すなわち「人間的〈関係性〉」を問題としている。そのためわれわれの関心となるのは、人間存在が何ものかとの間に特定の〈関係性〉を取り結ぶとき、そこにはいかなる意味が生じ、いかなる原理が出現するのか、ということになるだろう。
人間存在が形作る〈関係性〉をめぐっては、これまで社会学や哲学において多彩な研究が行われてきた。
例えば社会学では、伝統的に人間の“行為”――とりわけ社会的な意味を内在した社会的行為(social action)――に着目し、そこに含まれる根源的な原理を読み解いていくとともに、そうした行為者の集合体として、いかにして社会という複合体が成立しているのかということに関心が払われてきた(2)。
実際、T・パーソンズ(T. Parsons)からN・ルーマン(N. Luhmann)に至る「社会システム理論」(social systems theory)、G・H・ミード(G. H. Mead)からH・G・ブルーマー(H. G. Blumer)に至る「シンボリック相互作用論」(symbolic interactionism)、A・シュッツ(A. Schütz)の「現象学的社会学」(Phänomenologische Soziologie)など、多くの理論に共通するのは、価値規範や社会的役割をも含んだ意味的世界を背景に、「個人と個人」の相互作用、そして「個人と集団」の相互作用というものが、統一した原理のもと、いかなる形で説明することができるのかという問題意識であったと言えるだろう(3)。
これに対して哲学の場合は、〈関係性〉をめぐって、より存在論的な問題について関心が払われてきた。とりわけ重要なのは、自己と他者をめぐる根源的な原理に関わる“他者論”であろう。
もちろん現象学的な意味での最初の他者論は、E・フッサール(E. Husserl)の「間主観性」(Intersubjektivität)概念が示すように、もともとデカルト的な“自我”から出発しても、“他者”という存在の根拠を基礎づけられないという問題を克服することにあった(4)。
しかしそこでは、例えばJ=P・サルトル(J.-P. Sartre)の「相剋」(conflit)概念や、E・レヴィナス(E. Lévinas)の「応答責任」(responsabilité)の概念が示すように、われわれが自明視している“自己”という存在が、“他者”という存在なしには成立しえないという重要な指摘がなされてきた(5)。
また、より実践的な問題意識としては、例えばH・アレント(H. Arendt)の「現れの空間」(space of appearance)が、自己の「唯一性」(uniqueness)と人間の「複数性」(plurality)を強調したものであったように、そこではいかにして全体主義へと陥ることなく、人間が他者の「差異性」や「異質性」を前提とした多元的な共生を実現できるのか、という議論の方向性も含まれていたと言えるだろう(6)。
本書が明らかにすべき「人間的〈関係性〉」が存在論に基盤を置く以上、われわれもまた、他者論から出発しなければならない。ただしここでの議論が「個性か/全体性か」、「差異性か/同一性か」といった枠組みを強調するだけで終わるのであれば、われわれは結局、あの「かけがえのないこの私」を称揚する〈自立した個人〉の思想から抜けだすことはできないだろう。
また、ここで展開される理論的枠組みは、これまで行ってきた「環境哲学」や「〈生〉の分析」のアプローチと連結できるものにならなくてはならない。したがって本書では、そうした成果も取り入れながら、本書なりの他者論を展開しつつ、「人間的〈関係性〉」を読み解く理論的枠組みを独自の形で再構築していくことにしたい。
(2)「人間的〈関係性〉」の基本構造としての「〈我‐汝〉の構造」
理論的枠組みを構想していくにあたり、最初に問わなければならないのは、まず“自己”とは何か、“他者”とは何かという問題である。その最も端的な説明は、“自己”とは「私」という存在のことを指しており、“他者”とは「私」ではない(他の)存在のことを指しているというものだろう。
つまりわれわれは、「私」という形で特定可能な何ものかのことを“自己”と呼び、そうした自己とは区別される何ものかのことを“他者”と呼んでいるのである。
一般的に“他者”と言う場合、われわれは友人や同僚など、日々接触する「現存する顔見知りの人間」のことを連想するかもしれない。実際こうした他者は、日常的な生活実践においてきわめて重要な位置を占めている――本書ではそれを「中核的他者」と呼び、あらかじめ区別しておくことにしよう――。
だが先の定義によるならば、人間存在にとっての他者とは、それ以外のものをも含んでいる。例えば自身は認知しているが、実際には接触することが難しい「現存すると仮定できる人間」、曾祖父母から1000年前の名もなき兵士に至るまでの「過去に生きた人間」、それとは反対に、数世紀先の世代をも含んだ「未来に生きるだろう人間」、それどころか物語の主人公といった「空想上の人物」、古来より信仰の対象となってきた「神」、生活をともにしてきた「人間以外の生物」、そして浜辺で拾った小石のような「無生物」でさえ、ときに他者として現前しうるからである。
特定の存在が“他者”として現前するのは、それが“自己”に対して意味を持って区別されたときである。
そして“意味がある”ということは、そこに何らかの〈関係性〉が成立しているということに他ならない。つまり「現存する顔見知りの人間」にはじまり、浜辺の小石のような「無生物」に至るまで、あらゆる存在は、自己に対して「意味のある〈関係性〉」を成立させ、それによって“他者”となるのである。
ただし、そこで〈関係性〉が持つ“意味”の内実は、決して自己によって一方的に見いだされるものではない。例えば他者は、自己とは区切られる存在であるがゆえに、自己に対して差異性や異質性を必ず含んでいる。そして見方を変えれば、他者は自己に対して差異性や異質性を持って“語りかけてくる”のであり、自己が見いだす意味とは、そうした他者に対する応答であるとも言えるからである。
例えば「私」という存在にとって、亡き「祖父」は「意味のある〈関係性〉」によって結ばれた他者だと言えるかもしれない。このとき“意味”を見いだしているのは確かに「私」であるが、それは同時に祖父という存在が、私に対して否応なく投げかけてくる何かを持っているからでもあるはずである。
吉田健彦の言葉を借りれば、「我々の眼前に、或る他者が徹底して固有のものとして立ち現れ、避けようもなく我々に迫る」、その「迫真性」に対する応答こそが、〈関係性〉の“意味”をわれわれに呼び覚ましているのである(7)。
したがって、われわれが〈関係性〉の意味を問題とするとき、そこではあくまで自己と他者との相互作用が前提とされなければならない。さらにこのとき、他者が他者である根拠となる「他者性」の表現として、そこに単なる差異性や異質性を指摘するだけでは不十分だと言えるだろう。
例えば他者という存在が、ときとしてわれわれに“怖れ”を伴った感情を呼び起こすのはなぜなのだろうか。それは、そこに単なる差異が存在するからではない。それは他者が差異を伴うがゆえに、決してそのすべてを計り知ることができないものとして、つまり「意のままにならない存在」として対峙してくるからに他ならない(8)。
先の例に即して言えば、まず亡き「祖父」は、「私」にとって「意味のある〈関係性〉」によって結ばれた他者であった。それゆえ「私」は、「祖父」の人生と対峙することによって、自身の人生をも顧みることができる。だが他方で、「祖父」は決して「意のままになる存在」ではない。
「祖父」の人生のなかには、「私」が望まない過去があるかもしれないし、「私」にはその不本意な事実を消すことなどできない。しかしそうした側面をも含む形で、いやむしろそうした側面が含まれているからこそ、「私」と「祖父」の〈関係性〉には、重厚な“意味”が形作られるとも言えるのである。
本書では、一連の自己と他者との相互作用のことを、「〈我‐汝〉の構造」と呼ぶことにしたい(9)。この「〈我‐汝〉の構造」は、自己=〈我〉と他者=〈汝〉が織りなす「意味のある〈関係性〉」のことを表し、これからわれわれが「人間的〈関係性〉」を考察していく際の出発点となるだろう。
そしてわれわれは、ここで本書における他者の概念を、以下のように再定義することにしたい。すなわち〈他者存在〉とは、自己にとって本質的に「意のままにならない存在」であるとともに、「意味のある〈関係性〉」を通じて「〈我‐汝〉の構造」が成立しうるすべてのものである、というようにである。
それでは〈他者存在〉に対する自己、すなわち〈自己存在〉とは改めて何を指すものなのだろうか。われわれは先に、自己を「私」という存在であると仮定したが、それでは「私」とはそもそも何を指しているのだろうか。
例えば自己(self)と自我(ego)とは、同じものだと言えるのだろうか。ここでは“自我”を、ひとまず「私」によって意識されている「私」のことであるとしておこう。
しかし自己には“無意識”、つまり意識されていない「私」の存在が含まれている。また自我である「私」の意識は、身体という物理的な基盤によって形作られているが、自律神経や衝動、生理的な反射のように、自己であるはずの“身体”もまた、ときに「意のままにならない存在」となるだろう。
このことは、われわれが通常自己として認識しているもののなかにも、ある種の「他者性」が存在しうることを示唆している。
また人間存在は、自我が形成される以前から、ある種強制的にこの世界に産み落とされ、特定の時間と場所とにおいて配置されることによって「私」となっている。
人間は、ここで性別、性格、才能、容姿――あるいは特定の“遺伝的疾患”さえも――を含む自らの身体を選択することができなければ、肉親や隣人たち、あるいは将来的に意味を持つだろう国籍、母国語、文化的伝統といったものを選択することもできない。
このことは「私」という存在が、「私」としてあることに先行して「意のままにならない」ものたちと出会い、まさにそうした〈他者存在〉の直中において、〈この私〉となっていくことを示しているだろう(10)。
さらに言えば、ある〈他者存在〉と対峙している「私」と、別の〈他者存在〉と対峙している「私」が、はたしてまったく同一の「私」であると言えるのだろうか。
われわれはしばしば、いかなる〈他者存在〉との〈関係性〉からも独立した、不変で一貫性のある「純粋な私」というものが存在すると考えている(11)。しかし「人間的〈関係性〉」の最小単位が「〈我‐汝〉の構造」にあるのだとすれば、〈汝〉が異なれば、そこに現れる〈我〉もまた異なるものになりうるはずである。
実際われわれは、ある人物の前では決して見せない「私」の“顔”があり、別の人物と出会って、これまで自身も知りえなかった新しい「私」の“顔”を知るということがあるだろう。このことは、いわば「〈我‐汝〉の構造」というものが存在するだけ、「私」というものもまた存在しうるということを示唆しているのである(12)。
したがって以上を踏まえるならば、われわれが「私」だと認識しているものは次のように規定することができるだろう。すなわち〈自己存在〉とは、生物個体としての境界によって、身体という〈他者存在〉を内に含みつつも、生受において避けがたく数多の〈他者存在〉と結ばれることによって形作られてきた何ものか、そして無数の〈他者存在〉との間に、「〈我‐汝〉の構造」を通じて無数の「私」として現れたものの総体、それをあくまで漠然と捉えたものである、というようにである。
さらに〈自己存在〉が、無数の「〈我‐汝〉の構造」を通じて〈この私〉としてあるとき、それぞれの「〈我‐汝〉の構造」は互いに影響し合い、〈この私〉に連なる“世界”を形作っているとも言える。
例えば前述した吉田は、「メディア」を「あらゆる二者を介在するあらゆることともの」として捉えたうえで、次のように述べている(13)。
- 「きみが父の友人からのメールを読むとき、父の友人は父ときみをつなぐメディアになっている。メールも、写真もまた同様である。と同時に、きみにメールを送るという行為自体、そしてきみからの返信もまた、友人と父をつなぐメディアになっている。……そのとき、我々は互いにメディアとしての役割を交換しつつ交感している。それだけではない。きみがメールを読んでいる場は、きみが幼い頃から育った家であり、部屋だ。そのそこかしこに父の記憶が刻まれている。メールを打つPCは、数多くの(繰り返すが自然をも含んだあらゆる)誰かたちが材料を産みだし、収穫し、運び、精製し、デザインし、形成し、広告し、流通させ販売していまここにあるものだ。それらのすべての連なりの先に――あるいはこの瞬間の共振として――いま、このときが出現している」(14)。
つまり〈自己存在〉は、いまこの瞬間においても、この〈関係性〉の網の目を通じて「私」となっている(15)。そしてそれゆえ、瞬間的に出現するそれぞれの「私」は、確かに「私」ではあっても、一度として同じものではないとも言えるのである。
本書では、この〈自己存在〉の背後にあって「共振」する無数の「〈我‐汝〉の構造」を指して「〈関係性〉の場」と呼ぶことにしよう。
(3)「人間的〈関係性〉」における〈間柄〉の概念
以上を通じて、われわれは〈自己存在〉とは何か、〈他者存在〉とは何か、そして両者をめぐる根源的な原理である「〈我‐汝〉の構造」というものについて見てきた。
しかしわれわれが前述した「中核的他者」、すなわち時空間を共有し、日々接触する「現存する顔見知りの人間」との間に〈関係性〉を成立させる場合、「〈関係性〉の構造」は、よりいっそう複雑な事態を考慮しなければならない。
試しにここで、ある人間存在が別の人間存在と接触し、そこで“ゼロ”から新たな〈関係性〉を形成していく場合を想定してみよう(16)。
ここでの〈関係性〉は、まず互いが互いの存在について何も知らない状態から始まる。そのため両者が〈関係性〉を成立させるためには、互いに試行錯誤を繰り返すことによって、相手を知り、時間をかけて〈関係性〉の“意味”を構築していかなければならないだろう。
ここには、「中核的他者」との〈関係性〉の複雑さが良く表れている。なぜならここで「相手を知る」ことが求められるのは、相手もまた「〈関係性〉の場」を背負い、〈他者存在〉に対して「〈我‐汝〉の構造」を取り結ぶ〈自己存在〉であること、換言すれば、「私」が「相手」に対して「〈我‐汝〉の構造」を持つのと同じように、「相手」もまた「私」に対して「〈我‐汝〉の構造」を持つ存在であるということが前提されているからである。
そしてこのことは、「中核的他者」との〈関係性〉が内包した、独特の不安定さを説明するための手がかりにもなる。というのも、「中核的他者」との〈関係性〉においては、この両者が持つ「〈我‐汝〉の構造」が、常に一致しているとは限らないからである。
もちろん「私」は「私」なりに「相手」を理解しており、そのうえで〈関係性〉を構築している。しかし「相手」がいかなる形で「私」との〈関係性〉を理解しているのかについて、「私」がそのすべてを正確に知ることなど不可能だろう。
つまり「私」が理解し、望んでいる〈関係性〉を「実像の〈関係性〉」と呼び、「相手」が理解し、望んでいる〈関係性〉を「写像の〈関係性〉」と呼ぶのであれば、両者の間には、常に“緊張関係”が内在しているのである(17)。
本書では、このことを「実像‐写像」の「内的緊張」と呼ぶことにしよう。この「内的緊張」は、「他者性」の本質が「意のままにならない存在」であることに由来し、それゆえ決して避けることができないものであると言える(18)。
それゆえに、われわれが健全な〈関係性〉を維持していくためには、双方が「相手」の「写像の〈関係性〉」に気を配り、「私」を変容させることによって、不断に「実像の〈関係性〉」を調節していかなければならない。そしてそこでは、ときに文字通りに応答するだけでは不十分であるということもあるだろう。
なぜなら「内的緊張」を解消するためには、しばしば互いが「相手」に“介入”することによって、「相手」の真意を引きだしたり、「私」の真意を伝えたりすることが求められるからである(19)。
とはいえ、現実的な生活実践に目を向けるならば、そこにはさらに考慮すべき問題がある。というのも「中核的他者」との相互作用は、通常、複数の人間が同時に関わり、しかもその場で居合わせる構成員が刻々と変化するといった、きわめて複雑な形式で展開されることになるからである。
ここで〈自己存在〉は、ひとりひとりの〈他者存在〉に対して別々の「〈我‐汝〉の構造」を持ち、「私」の“顔”もそれぞれに異なるものとなる。しかし多数の人間が同時に介在するようになると、それぞれの「〈我‐汝〉の構造」が同時進行で他の「〈我‐汝〉の構造」に影響を与えることになり、〈自己存在〉は個々の発言や振る舞いにおいて、配慮すべき事柄、あるいは不確かな事柄が爆発的に増えていくことになるのである(20)。
そこから予想できるのは、きわめて不安定となった〈関係性〉と、ますます増大する「内的緊張」の負担に、われわれ自身が耐えられなくなるという事態であろう。
しかし「人間的〈関係性〉」においては、実はそうした事態が生じないための“仕組み”がはじめから備わっている。われわれはここで、この仕組みについて長年研究を重ねてきた社会学の見地を取り入れてみたい。
まず注目したいのは、E・デュルケム(É . Durkheim)が「集合意識」(représentation collective)と呼んだもの(21)、あるいはより一般的に社会学において価値(value)や規範(norm)と呼ばれるものの働きである(22)。
すなわち人間集団においては、一定の状況下において何をなすことを期待され、何をなすことを禁じられるのか、といったことに関する何らかの認識や基準の枠組みが集団的に共有されており、それによって前述した〈関係性〉の混乱が回避されるということである。
この社会学的な価値や規範の概念は、われわれの枠組みで言えば、「ヒト」として生まれたわれわれが「人間」となるために不可欠な、世代を超えて受け継がれる「人為的生態系」、ないしは〈根源的葛藤〉を緩和し、「集団的〈生存〉」を実現させる「〈生〉の舞台装置」、より厳密には、そうした〈社会〉を構成する、非物質的な基盤としての「意味体系=世界像」と呼んできたものに相当すると言って良い。
問題は、この全社会的な仕組みが、〈関係性〉の次元においていかなる形で説明できるのかということである。
ここで参考にしたいのは、前述のブルーマーらが「シンボリック相互作用論」と呼んだ社会理論の出発点として位置づけている、ミードの「一般化された他者」(generalized
other)をめぐる議論である。
ミードによれば、人間は幼少期から他者との相互作用によって自我を形成していくが、その際、相互作用を通じて他者の「態度」(attitude)や「役割」(role)を取得し、それを自己のうちに「一般化された他者」として統合させる(23)。
例えば幼児が行う“ごっこ遊び”では、何らかの「役割」が模倣されるが、それが成立するためには、幼児は他者が「役割」に伴って採用するだろう「態度」を内面化していなければならない。これに対して成長した子どもが行う「ゲーム」(game)、例えば“野球”が成立するためには、子どもが特定の「役割」や「態度」を取得するだけでは不十分である。
そこでは参加者のひとりひとりが、まさにさまざまな位置についているすべての参加者の「役割」や「態度」、そして行為によって予測される反応というものを理解していなければならない。
つまりこれと同じようにして、人間は成長の過程で、自らが属する社会集団において、さまざまな状況下において生じる「役割」や、他者が取りうるだろう「態度」の様式を「一般化された他者」という形で自己のうちに組織化する。
「一般化された他者」とは、そうした意味において、自己でありながら、同時に「他者」の目線から「行為する私」を捉えた、いわば「もうひとりの私」であるとも言えるだろう(24)。そして人々がそうした“参照点”となる「もうひとりの私」を共有しているからこそ、現実社会では円滑な相互作用が実現できるというわけである。
確かにこのミードの説明は、社会学的な意味での価値や規範というものが、実際に人間の〈関係性〉の次元において、いかなる形で働くのかを理解するための有益なモデルとなるだろう。
とはいえここで強調されるのは、あくまで「行為する私」が、「他者」の目線からなる「もうひとりの私」を伴って〈他者存在〉と対面するという〈関係性〉の側面であり、この説明ではかえって、その背後に潜む「実像‐写像」の「内的緊張」が見えにくくなるだろう。
われわれの枠組みにおいては、〈自己存在〉とは、あくまで無数の「〈我‐汝〉の構造」が織りなす「〈関係性〉の場」において漠然と規定されるものであり、そこでは〈他者存在〉に応じて無数の異なる「私」がありえるのであった。
したがってここで問題となるのは、ミードらによって「一般化された他者」という形で論じられてきたものが、〈関係性〉を制御する仕組みとして、われわれの枠組みにおいていかなる形で説明し直されるのかということである。
ここで本書が導入したいのが、〈間柄〉という概念である。一般的に“間柄”と言う場合、それは「叔父/甥の間柄」といった「血族/親類の続きあい(続柄)」や、「師弟の間柄」といった特定の「人と人との関係」のことを指すものとして用いられている(25)。
本書では、ここにやや特殊な意味を与えよう。すなわち〈間柄〉とは、特定の〈関係性〉を抽象化した概念であり、そこには特定の〈間柄〉に相応しい“振る舞いの型”であるところの〈間柄規定〉というものが内包される、といったようにである(26)。
例えばわれわれは、前述したもの以外にも、親子、家族、友人、親友、夫婦、恋人、同志、同僚、上司と部下、教師と生徒、クラスメート、地域の住人など、〈間柄〉を示す語を多様に用いている。これらはいずれも特定の〈関係性〉を示す“型”であって、そこにはそれぞれの〈関係性〉に相応しい、あるいは相応しくない“振る舞い”というものが同時に理解されているのである。
その意味では、例えば「私」(あるいは「相手」)が子どもなのか老人なのか、同性なのか異性なのかといった身体に関わる属性もまた、互いの振る舞いを一定の形で方向づけるという点から、やはりある種の〈間柄〉として機能していると考えることができるだろう(27)。
この〈関係性〉の型としての〈間柄〉が、〈関係性〉を制御する仕組みとなりうるのは、それを共有することによって、われわれが互いの「〈我‐汝〉の構造」を「形式化」することができるようになるためである。
このことを、われわれが用いる〈間柄〉のなかでも、きわめて強力な「形式化」をもたらす、「財やサービスの提供者」と「財やサービスの消費者」という〈関係性〉――われわれはこの〈関係性〉を成立させている倫理のことを、これまで「経済活動の倫理」と呼んできた――から考えてみよう。
まず前述のように、われわれが「中核的他者」と対面するとき、そこには常に「実像‐写像」の「内的緊張」が潜んでいる。しかし「経済活動」の文脈において、例えば業務として窓口の対応を行うとき、あるいは商業施設で何かを購入するとき、われわれはそこで「中核的他者」と対面しつつも、「内的緊張」を感じることはほとんどない。
というのも、ここでは双方が然るべき〈間柄規定〉によって、自らの望まれる振る舞いや、相手が返してくるだろう振る舞いを予測できるようになっているからである。
われわれはそこで、「相手」の背後にある「〈関係性〉の場」や「写像の〈関係性〉」について、いちいち思いを馳せる必要はない。例えば「相手」は、いかなる生受、いかなる人生を背負ってここに立ち、いかなる事情、いかなる感情のもとでここに居るのか、そして「相手」は「私」という〈他者存在〉について、いかなる形で理解し、いかなる〈関係性〉を望んでいるのか――こうした人格的要素は、ここでは単なる“ノイズ”となる。
より端的に言えば、ここでは互いが無理をして「相手を知る」必要などない。逆にそれゆえ、互いにまったくの初対面であったとしても、われわれは簡単に〈関係性〉を成立させ、円滑な相互作用を実現することができるのである。
もちろん「財やサービスの提供者」と「財やサービスの消費者」という〈間柄〉は、後に見るように、一元的な「形式化」を強力に引き起こすという意味において、〈間柄〉の事例としては極端なものだと言えるかもしれない。
実際、「私」がある人物と対面するとき、そこで働く〈間柄〉は、同僚であると同時に、趣味を共有する友人でもあり、さらには同じ高校時代の記憶を共有する同窓生であるかもしれない。このように現実の〈関係性〉においては、われわれは日々多様な〈間柄〉を――言語化されていないきわめて微細なものも含めて――幾重にも活用して生きている。
そして多人数で行動する場合には、われわれはその場の状況や構成員の形によって、最も大きな意味を持つ〈間柄〉を柔軟に切り替えながら過ごしているとも言えるだろう。
いずれにせよ、〈間柄〉という仕組みが存在することによって、「実像‐写像」の「内的緊張」がもたらす負担は大幅に軽減される。〈生〉の実践に不可欠となるさまざまな集団的営為は、いわばこうして維持されてきたのである。ミードらが「一般化された他者」と呼んできたものは、ここではわれわれが行使可能な〈間柄〉の集合体という形で再定義されることになるだろう。
(4)「人間的〈関係性〉」における〈距離〉の概念
とはいえ、「人間的〈関係性〉」をめぐるわれわれの議論においては、依然として考慮すべき問題が残されている。それは〈間柄〉が「形式化」によって〈関係性〉の負担を軽減する一方で、別の文脈においては、まったく新たな「内的緊張」をもたらすことになるからである。
このことを再び「財やサービスの提供者」と「財やサービスの消費者」という〈関係性〉から考えてみよう。前述したように、この〈間柄〉においては、そのきわめて強力な「形式化」によって、われわれは互いの人格的要素を無視したままでも容易に〈関係性〉を構築できる。
しかしもしここで、われわれにとってすべての〈関係性〉が、こうした〈間柄〉のみによって完結するものだったとしたらどうだろう。われわれの〈関係性〉は、おそらく苦しみに満ちたものになるはずである。
強力な「形式化」が働くということは、逆から見れば、互いの背景にある「〈関係性〉の場」も、互いの「〈我‐汝〉の構造」も、ここでは一切が考慮されないということを意味する。
われわれは先に〈自己存在〉は、〈他者存在〉との「〈我‐汝〉の構造」――語りかけてくる〈他者存在〉に対する応答――を通じて、はじめて「私」になれると述べてきた。こうした状況下においては、〈関係性〉の“意味”は著しく矮小なものとなり、〈自己存在〉はきわめて浅薄なものにならざるをえないからである。
この〈間柄〉がもたらす新たな苦しみは、多くの場合〈間柄〉が外的なもの、すなわち自らが関与しえない、生受の条件や、周囲の状況によって付与されるものであることにも一因がある。そこではひとりひとりの人間の意思、あるいは「〈関係性〉の場」や「〈我‐汝〉の構造」が素通りされ、画一的な形で〈関係性〉の“意味”が規定されてしまうからである。
実際われわれは、偏見、レッテル、ラベルといった言葉が象徴するように、しばしば特定のステレオタイプからの類推によって、他人の振る舞いを解釈したり、判断したりすることに注意を払う。そのときわれわれが警戒しているのは、実は〈間柄〉が持つこうした側面なのである。
しかしそれでは、〈間柄〉は、なければないほど良いのだろうか。そうではないのである。
これまで見てきたように、〈間柄〉がなければ、われわれは複雑な〈関係性〉の網の目のなかを生きていくことなどできない。〈間柄〉なき世界においては、われわれは、その余りに膨大な配慮すべき事柄、そして不確かな事柄に押しつぶされ、やがては〈関係性〉を構築すること自体の負担に耐えられなくなるだろう(28)。
他方で〈間柄〉は、決して“不変”のものではない。例えば前述のブルーマーは、社会的な意味(有意味なシンボル)が持つ流動性について指摘している。すなわち人間は、相互作用によって常に新たな意味を構築していく存在であり、そうした人間自身の主体的な相互作用が生みだす過程そのものが、われわれにとっての社会であるというようにである(29)。
このことが示唆しているのは、〈間柄〉は修整可能なものであるということである。実際われわれは〈関係性〉の営為の中で、常に新たな〈間柄〉の枠組みを生みだしながら、そして常に具体的な〈間柄規定〉の内容を再構築しながら〈生〉を実現している。
ただし、集団的に共有された〈間柄〉が更新されていくには、それ相応の時間を要することも確かである。むやみに変質してしまう〈間柄規定〉であるならば、それはそもそも〈間柄〉としては機能しえないはずだからである。
以上の考察から理解できるのは、次のことであろう。
つまりわれわれが円滑に〈関係性〉を構築するためには、〈間柄〉が不可欠であるが、その仕組みの恩恵を皆が受けるためには、人間はときに、自らの望まない〈間柄〉を受け入れなければならない場面や、その〈間柄規定〉にしたがって、望まない振る舞いを行わなければならない場面があるということ、それでもなお、それがあまりに徹底したものとなるとき、人間は自らの〈存在の強度〉を保つことができなくなる、というジレンマに他ならない。
本書では、このことを〈間柄〉がもたらす第二の「内的緊張」と呼ぶことにしたい。
だが、注目したいのは次の点である。すなわち過去から現在に至るまで、実際には、「人間的〈関係性〉」のすべてが、〈間柄〉によって塗り潰されたものだったわけでは決してないということである(30)。
常々人間は、〈間柄〉のなかにあっても、ときに〈間柄〉の構えを解き、そこに再び「〈我‐汝〉の構造」を呼び覚ますことによって、〈関係性〉に深い色彩を与えながら生きてきた。その側面を理解することによってはじめて、われわれは「人間的〈関係性〉」の全体像を掌握することができるようになるのである。
そこで本書では、ここで新たに〈関係性〉の〈距離〉という概念を導入してみることにしたい。
まず代表的な辞書によれば、“距離”とは、「二つのものや場所の間のへだたり」を指す概念である(31)。「間」も「隔たり」も、二つ以上の何ものかの関係性を問題としており、加えてわれわれは、それを空間的な隔たりという意味だけでなく、特定の〈関係性〉を指して「距離が近い/遠い」と言うように、比喩的な意味での「人とのつきあいの上でのへだたり」、人と人との間にある心理的な隔たりという意味でも用いている(32)。
確かに、われわれがこれまで用いてきた〈間柄〉の概念もまた、「人と人との間」を表すものであった。しかし〈間柄〉の概念は、特定の〈関係性〉を抽象化したものに過ぎず、そこには「人と人との間」に本来存在するはずの、尺度としての距離という側面が十分に汲み取られていない。
ここで整備したいのは、〈関係性〉を制御する〈間柄〉とは別の仕組みとしての、〈距離〉の概念なのである。
もっとも〈関係性〉の原理としての〈距離〉の概念は、他の概念と比較して、これまで十分な研究がなされてきたとは言いがたい。
例えば社会学には、「役割距離」(role distance)という概念が存在する。これはE・ゴッフマン(E. Goffman)が提唱したものであり、例えば反抗的な若者が行う非行、医者が手術中に発する冗談のように、特定の社会的状況下において、期待される振る舞いとは異なる行為を敢えて行うといった、一種の逸脱のことを指している(33)。
しかしゴッフマンが問題にしている距離とは、あくまで求められる振る舞いと実際に行われた振る舞いの隔たりであって、われわれが問題にしている「人と人との間」にある「隔たり」のことではない。ここで重要なことは、むしろわれわれが先に、人間は〈間柄〉のなかにあっても、ときに敢えて〈間柄〉の「構えを解く」と述べたことの意味である(34)。
例えばあるプロジェクトに参加する人間が、わけあって関係機関の担当者と交渉する場面を想像してみてほしい。ここで両者の〈間柄〉は、まずは互いの組織の代表者という形で規定される。
しかしこうしたとき、われわれが敢えて会食の場を設けたり、プロジェクトとは無関係な個人的な話題を交わしたりするのはなぜなのだろうか。それは先の「役割距離」として規定される逸脱とはまったく異なる。それはわれわれが、互いに〈間柄〉としてではなく、まさに「相手を知る」ことを通じて、しばしばより意義のある交渉結果を導くことができることを知っているからである。
人間の〈関係性〉には、ときに互いが背負う「〈関係性〉の場」に触れ、〈我‐汝〉として向き合うこと、換言すれば〈間柄〉の背後にある「私」の顔を互いに表出することによって、はじめて掴み取れる“真意”というものがあるからである。
本書ではこうした行為のことを、〈間柄〉による「形式化」に対応させる形で、〈関係性〉の「脱形式化」と呼ぶことにしたい。人間は〈間柄〉を必要とするが、同時に〈間柄〉の「構えを解く」ことを通じて、ときにより円滑な〈関係性〉を構築することができるのである。
もっとも「構えを解く」ことは、〈間柄〉が無効になるということを決して意味しない。たとえいかなる「相手」であったとしても、われわれは依然として何らかの〈間柄〉に服していなければ〈関係性〉を維持することはできない(35)。
つまり〈関係性〉において「脱形式化」が意義あるものとなるためには、その前提として、あくまで〈間柄〉による「形式化」が不可欠なのである。
要するに、ここで導入したい〈距離〉の概念とは、この「脱形式化」を行う“度合い”を表す概念に他ならない(36)。
例えばわれわれが「距離が近い関係性」と言う場合、それは両者が単に〈間柄〉で完結した仲ではなく、より多くの局面において「〈我‐汝〉の構造」を介して向き合っていることを意味している。
逆に「距離が遠い関係性」と言う場合、それは両者がより多くの局面において、「〈我‐汝〉の構造」を介さず、〈間柄〉に従って向き合っている、ということを意味しているのである。そしてこの「脱形式化」によって、われわれは〈間柄〉がもたらす第二の「内的緊張」を緩和させることができるようになるだろう。
例えばわれわれは、〈間柄〉の背後に隠れていた「私」を表出させることによって、望まぬ〈間柄〉や不適切な〈間柄規定〉との隔たりを示すことができる。それは互いが〈間柄〉の形をより良い形に修整していく契機にもなるだろう。
ただし「脱形式化」を行い、「〈我‐汝〉の構造」を持ちだすことは、われわれが再び「実像‐写像」の「内的緊張」に直面することをも意味している。そしてわれわれが〈距離〉を活用するとき、「私」が理解し、望んでいる「距離間」と、「相手」が理解し、望んでいる「距離間」との間には、やはり不一致が生じる余地がある。
つまり「私」がどれほど「構えを解く」ことを望んでいても、「相手」がそれを望まないのであれば、そのことがかえって〈関係性〉を不安定なものにさせるだろう。本書ではそのことを、〈距離〉がもたらす第三の「内的緊張」と呼ぶことにしたい。
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(1)『日本語源広辞典』(2012)、『広辞苑』(2018)。
(2)M・ウェーバー(M. Weber)は、人間の行う“行為”というものを、主観的な意味と関連づけられた「社会的行為」(Soziales Handeln)として分析するとともに、行為者が行為の前提として社会的に共有している「精神」(Ethos)のあり方について問題とした(ウェーバー 1972、1989)。E・デュルケム(É. Durkheim)は、後述するように「集合意識」(conscience collective)という概念を提起し、集団によって共有された価値規範がその集団に属する個人の行為や思考、感情に拘束力を与えることを問題とした(デュルケム 1989)。
(3)例えば「社会システム理論」では、社会全体を人々の諸行為が織りなすシステムとして理解する。とりわけパーソンズ(1974)の場合は、その全社会的なシステムの構造を維持するように働く要素と、それに反する要素を分析する「構造‐機能分析」(structural-functional analysis)に焦点があてられ、ルーマン(1993)の場合は、システムを人々の行為の前提となる意味的秩序として捉えたうえで、無数の可能性を内在した世界から、複雑性を縮減することによってシステムが成立するところに焦点があてられる。「シンボリック相互作用論」は、ミード(1973)の相互行為に関する分析を引き継いだブルーマー(1991)によって提唱され、人々が有意味なシンボルを用いて主観的に行う相互作用に着目し、社会をそうした相互作用の動的な“過程”として理解する。「現象学的社会学」は、フッサールの現象学を引き継いだシュッツ(2006)によって提唱され、そこでは社会を間主観的に共有されている意味的世界としての「生活世界」(Lebenswelt)という観点から捉えたうえで、多様な相互行為についての分析が試みられる。
(4)R・デカルト(R. Descartes)は、方法的懐疑を用いて普遍的に正しいと言えるものを証明しようと試みたが、この思考を徹底していくと、われわれが自明視している他者もまた、同じような主体性を持つ人間であるという根拠は導けない(デカルト 2006)。現象学の創始者であるフッサール(2001)の「間主観性」概念は、もともとこの問題を解決するために導入されたものであった。つまり現象学においては、世界は主観的に構成された“現象”として捉えられるが、現出する他者の場合、自己の身体との類似性を契機として、他者もまた主体性を持つ人間であることが確証され、そこから他者と共有された間主観的世界の存在が認知されることになる。「間主観性」の概念は、社会的に共有された意味的世界としての「生活世界」概念とも関連づけられ(フッサール 1995)、その後はシュッツ(2006)の「現象学的社会学」にも受け継がれていった。
(5)サルトル(1974、1996)は、人間という存在が、自身を規定しようとする他者からの“まなざし”と、他者を規定しようとする自身の“みかえし”との間の「相剋」の状態にあると理解し、真の自由(主体性)のためには、他者から規定された自己――「即自存在」(être-en-soi)――に甘んずることなく、未来の可能性への投企によって、自ら意味づけた自己――「対自存在」(être-pour-soi)――を引き受けなければならないと述べた。またレヴィナス(1989、1999)は、人間存在の主体性が、異質な他者と出会い、そうした他者に対する「応答」の渦中においてこそ成立するとした。人間存在を「〈我‐汝〉の構造」によって成立すると考える本書には、当然両者の他者論と多くの共通点があると言える。ただし本書の立場――とりわけ【第十章】において展開する、「世界観=人間観」としての〈無限の生〉に対する批判的立ち位置――からすれば、サルトルもレヴィナスも「意のままにならない他者」の存在に気づいていながら、結局は〈有限の生〉を引き受けて生きていく道ではなく、新たな〈無限の生〉=「意のままになる生」の境地を探求する道へと向かったと考えることもできる。なぜなら〈有限の生〉を引き受けるためには、われわれはある面では「即自存在」として生きることを肯定しなければならないし、われわれはいかなる他者に対しても、「私」として受け入れ、「応答」できるわけではない――だからこそ人間には〈間柄〉が不可欠なのである――からである。。
(6)アレント(1994)は、人間の実践のうち、生命維持に結びつく循環的な「労働(labor)」や、人工物を世界に創出する「仕事(work)」よりも、公共世界(共通世界)において自らが「唯一性」を帯びた存在として他者の前に現れる「活動(action)」こそが、人間存在のリアリティにおいて重要であると述べた。この主張の背景には、全体主義がもたらす画一性から、人間の「唯一性」や「多数性」を防衛しなければならないとする強い警鐘が込められている。こうした全体主義批判の文脈は、前述のレヴィナス(1989)にも共通しており、彼の場合は、同一性の拡大としての“全体”に対して、“全体(同化)”に回収されないものとしての異質な他者――ここでは各々異なる唯一性の象徴としての「顔」(visage)が強調される――の「無限」(Infini)が対置されることになる。
(7)吉田(2017:345)。
(8)増田敬祐は次のように述べている。「なぜなら、人間は時間と空間に規定された存在であるがゆえに、その規定される渦中で他者との関わりを円満・円滑に営むために〈人間存在の倫理〉を試行錯誤し、研鑽してきた歴史があるからである。その営為の歴程は「共」の世界という自分たちの生の現場にあり、そこで生を全うするということは意のままにならない他者と時間と空間を供にし、同時代を生きるということである」(増田 2016:127-128、傍点は筆者による)。
(9)かつてM・ブーバー(M. Buber)は、人間の根源的な関係性を「我(Ich)‐汝(Du)」と呼び、それを、世界を操作可能な対象と見なす「我(Ich)‐それ(Es)」の関係性と区別した(ブーバー 1979)。本書に即して言うなら、「我‐それ」は〈他者存在〉を「意のままになる存在」と仮定する特殊な〈関係性〉のことであり、換言すれば、肥大化した虚構の「この私」の延長として、〈他者存在〉を取り込んでいくような〈関係性〉のことであるとも言える。「〈我‐汝〉の構造」における〈我〉とは、あくまで「意のままにならない存在」との〈関係性〉における「私」のことを指している。
(10)吉田健彦は、このことを「自己基底の他者原理」と呼ぶ。「われわれは常に他者に先行され、その他者による呼びかけに応答を強要されるものとしてのみ、この世界に存在し始めることができる。この呼びかけは未だ存在せざる「私」には決して避けようのないものであるが故に、根源的暴力性を帯びている」(吉田 2017:333)。〈この私〉の概念については、【注49】も参照のこと。
(11)こうした「自己」の概念を、本書では「純粋な私」、「本当の私」、「ありのままの私」、「かけがえのない私」といった多様な形で表現する。こうした「私」に共通しているのは、後述するように、〈他者存在〉によって影響されない、あるいは影響されてはならないような“真の「自己」”というものが存在しうるという信念である。〈自立した個人〉の理想は、ある面ではこうした「自己」の確立を目指してきたと言えるが、本書に即せば、そのような「私」はいずれも虚構の「この私」でしかない。
(12)ここでわれわれが提示した人間観は、意外にも浜口恵俊が「間人主義」と述べたものと通じる部分があるかもしれない。「実在するのは、そうした唯我的な主体性の保持者ではなく、既知の人との有機的な連関を常に保とうとする関与的主体性の持ち主、すなわち“間人(かんじん)”であろう。それは、人間関係の中で初めて自分というものを意識し、間柄を自己の一部と考えるような存在である」(浜口 1982:5-6)。なお、この「間人主義」の概念は、実際には欧米人と日本人の比較という文脈のなかで提起されたものである。つまり浜口によれば、両者は関係性の様式自体が根源的に異なっており、「間人主義」はきわめて日本的なものであるとされている。この視点は改めて検討してみる価値のある問いだが、本書ではこれ以上は踏み込まない。なお浜口とよく似た指摘は、木村敏(1972)にも見られる。
(13)吉田(2017:340)。
(14)吉田(2017:341)。したがって〈他者存在〉が現す「迫真性」とは、こうした〈関係性〉の網の目からなる「全体性」を通過して「私」に到来するからこそ、力あるものとなる。なお吉田は、この他者の到来を「貫通」とも表現している。「むしろその背後に空間的/時間的な広がりを持ち、その遥か彼方から、固有ノードを貫通して「私」の前にきみが顕現する。そのようにして、我々は互いに役割を交換しつつ相互に貫通し合っている(co-penetration)。その構造の全体がメディアである」(吉田 2017:349)。
(15)われわれはこのことを、すでに別の形でも表現してきたと言えるだろう。それは〈存在の強度〉に深く関わる、〈存在の連なり〉という概念である。
(16)後に言及するように、「中核的他者」との〈関係性〉は、通常最初に〈間柄〉がある状態から開始され、〈距離〉が縮まるにつれて、徐々に〈間柄〉を解除した領域が拡大していくという形を取る。したがって厳密には、“ゼロ”から〈関係性〉が生じるとするここでの想定は正しいものではない。一般的に人間が未知の相手と接する場合、そこで生じる戸惑いの原因は、〈間柄〉なき〈関係性〉に由来するのではなく、われわれがそこでいかなる〈間柄〉を選択すべきか混乱することに由来する。未知の人間と接触する頻度が高い社会においては、未知の人間同士の〈関係性〉を規定する、独自の〈間柄〉が形成されることになるだろう。もし仮に、真の意味で〈間柄〉なき〈関係性〉が存在するならば、それは現代特有の“病理”であって、〈関係性〉の異常な状態であると言えるのである。
(17)われわれはこの「実像‐写像」の「内的緊張」のことを、しばしば論じられるように「相手が理解し望む私」と「私自身」の、あるいは「私が理解し望む相手」と「相手自身」の間にある葛藤として理解してはならない。存在の起点を〈関係性〉として捉えるならば、厳密には「私自身」や「相手自身」というものは想定されず、葛藤の中心軸は、あくまで文中のように「私が理解し、望んでいる〈関係性〉」と「相手が理解し、望んでいる〈関係性〉」の間に置かれるか、もしくは「私が理解し、望んでいるこの人との〈関係性〉」と「私が理解し、望んでいる別の誰かとの〈関係性〉」といった、異なる「〈我‐汝〉構造」の間に置かれなければならないからである。なお、この「実像‐写像」の「内的緊張」は、一面では確かに、【注5】において言及したサルトル(1974)の「相剋」の状態と重なる部分があるかもしれない。とはいえここでの「緊張」の真意は、あくまでわれわれが、そこで常に互いの背景にある「〈関係性〉の場」を気遣い、自身が理解している「〈我‐汝〉の構造」を調整していかなければならないということにあるのであって、「相手」を意味づける主導権争いや、ましてや「相手」の“まなざし”を超克し、「対自存在」としての自己を全面化させていく過程にあるのではまったくない。
(18)このことが、「中核的他者」以外の〈他者存在〉についてもあてはまるかどうかについては慎重な議論を要する。定義上、〈自己存在〉にとって「意のままにならない存在」はすべて〈他者存在〉となりうるが、ここで「実像‐写像」の「内的緊張」が成立するためには、「相手」もまた「私」に対して「〈我‐汝〉の構造」を成立させられる存在でなければならないからである。例えば近年“家族”の一員として理解されている“ペット”の場合、「私」の方から「写像の〈関係性〉」を理解し、自らの「実像の〈関係性〉」を修正することはできるが、一般的に逆は成り立たないだろう。ただし仮に〈関係性〉の調整を主体的に行える高い知能を備えた“ペット”がいるのであれば、そこには一面において、「実像‐写像」の「内的緊張」が成立しうると言えるかもしれない。とはいえ“ペット”の場合、それ以前に、それがはたして「意のままにならない他者」だと言えるのかということの方が重要である。なぜなら“ペット”が“ペット”としてあるためには、究極的には「意のままになる他者」でなければならないように思えるからである。その意味では、もともとそこには不完全な「〈我‐汝〉の構造」しか成り立たないと考えることもできるだろう。
(19)もちろんここでの指摘は、【第八章】で本格的に論じることになる「不介入の倫理」を意識してのことである。この一言のなかには、なぜ「不介入の倫理」を行使するだけでは、「〈我‐汝〉の構造」を介した深い絆を育むことができないのかという問いに対する、ひとつの答えが示されていると言えるだろう。
(20)例えば「イ」、「ロ」、「ハ」という三人が居合わせるとき、「イ」は「ロ」と「ハ」に対してそれぞれ「〈我‐汝〉の構造」を持っている。このとき「イ」は、「ロ」と「ハ」がそれぞれに持っている「写像の〈関係性〉」に配慮するだけでなく、「ロ」と「ハ」が互いに持っている「〈我‐汝〉の構造」を――しばしばそこに含まれる「内的緊張」をも含んだ形で――配慮しなければならない。ここに四人目の「ニ」が加わる場合、「イ」が配慮すべき事柄は幾何級数的に増大することになるだろう。
(21)デュルケム(1975)は、個人に対して外在的であるような行為、思考および感情の様式でありながら、同時に拘束力をもって個人を強制するものを「集合意識」と呼んだ。
(22)“価値”と“規範”は、厳密にはまったく異なる概念であるが、社会学においては、集団に及ぼす「機能」という側面からは、しばしば類似した働きを持つものとして考えられてきた(パーソンズ 1974)。
(23)ミード(1973:166)、Mead(1934:154)。
(24)ミードは、この「私」と「もうひとりの私」の違いを、「I」と「me」の違いとして区別している。「me」とは、他者から取得された「態度」が組織化されたものであり、「I」とは、そうした「me」の目線によって対象化され、はじめて自覚されるような「私」のことである。したがってミードにとって、自我とは、「I」と「me」の絶え間ない相互作用によってはじめて成立するものとして理解される(ミード 1973:186-191、Mead 1934:173-178)。
(25)『広辞苑』(2018)、『日本国語大辞典』(2007)。また和辻哲郎は、人間を単に「人の間」であるのみならず、「自、他、世人であるところの人の間」(和辻 2007:22)であると捉え、「間柄」という概念について以下のように述べる。「世が時の意と並んで社会を意味するように、間、中もまた空間の意と並んで人間関係を意味する。男女の間、夫婦のなか、間を距てる、仲違いをする、等の用例が示すごとく、それは交わり、交通というごとき人と人の行為的連関である。人は行為をすることなしには何らの「間」「仲」をも作り得ぬ。が、また何らかの間・仲においてでなければ人は行為することができない。だから間柄と行為的連関とは同義なのである。このような間・仲は、机の間、水の中というごとき静的な空間ではなくして、生ける動的な間であり、従って自由な創造を意味する」(和辻 2007:35)。本書の枠組みに従えば、ここでの人間存在の「間柄」とは、〈関係性〉の型としての〈間柄〉と「〈我‐汝〉の構造」という二つの次元によって構成されていると言えるだろう。
(26)このように限定された〈間柄〉の概念は、先にミードの議論でも触れたように、社会学においてはもっぱら「役割」(role)という概念によって論じられてきた側面がある。しかし本書では、【第八章】において人間存在の〈共同〉について論じるなかで、〈役割〉という概念に特別な意味を付与したい。したがって本書では、こうした社会学的な意味での「役割」についても、一貫して〈間柄〉という語を用いて論じることにする。
(27)例えばわれわれが、横断歩道を渡る見ず知らずの老人を手助けしようとするのも、あるいは公共の場で騒々しく駆け回る見ず知らずの子どもの挙動を黙認するのも、そこで“身体的属性”に由来する〈間柄〉が機能するためである。
(28)例えば、目の前の妊婦や老人に席を譲ろうとした若者に対して、その行為が偏見やレッテルだと言うのであれば、そうした配慮を進んで行う人間は誰もいなくなるだろう。同様に、授業中に騒いだ生徒を注意した教師の振る舞いを、「なぜ私の子どもが、あなたが単に先生であるというだけで非難されなければならないのか」と言うのであれば、学校教育の現場は破綻するだろう。これらの事例については、【注52】も参照。だが、ある者は次のように言うかもしれない。つまり〈間柄〉には、偏見、ラベル、レッテルというべき“悪しき〈間柄〉”と、理性、あるいは合理性に根差した“善き〈間柄〉”があり、ここでの事例は後者にあたるというようにである。しかし、そもそも個々の〈間柄〉を取り出して、それらを厳密に“善悪”に振り分けていくことなど不可能である。いかなる〈間柄〉であっても、おそらくそこには人間的現実において何らかの「合理性」がある(ないしは、かつては「合理性」があった)からこそ成立した側面があると言える。ありえる事態は、時代状況の変化によって、特定の〈間柄規定〉が現実と符合しなくなるということであり、その場合に求められるのは、あくまで〈間柄規定〉の“修整”なのである。
(29)ブルーマー(1991)のこうした“社会観”は、ひとつに「構造‐機能分析」を中心としたパーソンズらの社会学への批判が込められている。【注3】でも取りあげたように、そこでは“社会”が所与の規則的な秩序として理解され、あらゆる社会的な要素がその秩序に貢献するか否かという視点から解釈される。そうすると、価値、規範、役割等は、もっぱら個人を秩序に従わせる“機能”を持つものとして位置づけられることになるだろう。しかし実際には、人間はその秩序の影響を受けつつも能動的にそれに参加し、解釈の主体となることによって、価値、規範、役割等の中身を自ら変容させていく側面があるのである。
(30)われわれはしばしば、前近代的な社会を“個の埋没”、換言すれば〈間柄〉によって塗りつぶされた全体主義として規定してしまう。しかしそれは【第八章】でも見るように、「牧歌主義的‐弁証法的共同論」がもたらした、きわめてイデオロギー的な解釈に過ぎない。人間存在は、常に「〈我‐汝〉の構造」とともに〈間柄〉と〈距離〉を活用しながら生きてきたのであって、その原理そのものは、前近代社会であろうと、近代社会であろうと、基本的には変わらないからである。
(31)『日本国語大辞典』(2007)項目「距離」を参照。
(32)【前注】、および【注25】の和辻による説明を参照。
(33)ゴッフマン(1985)。われわれの枠組みで言えば、こうした行為は、〈間柄〉がもたらす第二の「内的緊張」に対して、主体の側がその“緊張”を緩和させようとして行う逸脱であると解釈することができるだろう。
(34)その意味においてわれわれが参考にすべきなのは、むしろ増田敬祐による「間合主義的関係性」の概念であろう。「〈間〉に在る境(さかい)は縁(ふち)であり、縁(ふち)とは自分と自分でないものを別つ縁取り、間合のことを指す。〈間〉という場の重要性は、人間存在を「因果関係」とは異なる関係におくことにある。それは個々の関わりが網の目のような縁(えん)によって変化していく場としての〈間〉「あいだ」であり「ま」、「あわい」である。……「間合主義的関係性」とは、対象によって互いの距離間が異なるとき、それぞれの関係性を円滑、円満にするために間合を読みながらかかわり合うことである」(増田 2017:273-274)。注目したいのは、増田が〈関係性〉を円滑、円満に構築していくために不可欠なものとして、人間が互いの「距離間」を察知し、「間合を読む」ことの重要性を指摘している点である。もっとも、ここで増田の主眼にあったのは、“唯一”で“不変”な自己を前提とし、そうした人間があたかも「因果関係」をなすかのように普遍的な様式によって他者と関わっていくことを想定する、〈普遍主義的関係性〉を批判することであった。増田によれば、人間は元来唯一の「もの」として生まれるが、人間存在の基点は、あくまで移ろいゆく関係性、移ろいゆくおのれ自身、「環境」の縁において生起する「こと」の文脈に置かれなければならないのである。
(35)「親しきなかにも礼儀あり」という格言が示すように、いかに親しい人間であっても、互いに守らなければならない“作法”がある。これは、いかに〈距離〉が近い人間同士であったとしても、そこには依然として〈距離〉が存在すること、したがって〈間柄〉もまた存在するということを意味している。
(36)われわれはしばしば“クラスメート”よりも“兄妹”の方が「距離が近い関係性」であると考えるが、ここでの〈距離〉の概念を、そうした〈間柄〉の類型化――特定の〈間柄〉は距離が近く、別の〈間柄〉はそれよりも距離が遠いといった――と混同しないように注意してほしい。ここで問題にしているのは、あくまで〈間柄〉の構えを解き、人が「〈我‐汝〉の構造」として向き合う度合いのことだからである。このことは、たとえ相手がクラスメートという続柄であったとしても、形だけの兄妹よりもはるかに〈距離〉が近い場合があるということを意味している。