ディスカッション



〈自己完結社会〉の成立(上)
上柿崇英著


〈自己完結社会〉の成立(下)
上柿崇英著

環境哲学と人間学の架橋(上柿崇英 
/尾関周二編)
環境哲学と人間学の架橋
上柿崇英/尾関周二編


研究会誌『現代人間学・
人間存在論研究』

   

用語解説

   

「人間という存在に対する〈信頼〉」(「人間存在に対する〈信頼〉」) 【にんげんというそんざいにたいするしんらい】


 「そのひとつは、何かを背負うもの同士が持つ特別な絆である。目指す地点は違えども、同じように何かを背負って生きている人間がいるということ、それ自体が彼らを励まし勇気づけるからである。だがそもそもなぜ、彼らは不遇に遭いながらも、おのれだけが信ずるものを持ち続けることができたのだろうか。あるいはなぜ、いつの時代も少数ながら、そうした奇人を見捨てぬ人間がどこからともなく現れてきたのだろうか。端的に言えば、そこに「人間という存在に対する〈信頼〉」があったからである。」 (上巻 271



 「〈共同〉のための作法や知恵」としての〈信頼〉の原理の一形態で、〈有限の生〉「意のままにならない生」の現実を前に、何かを背負い、必死に生きようとしてきた(そして生きていくだろう)人間存在そのものへの〈信頼〉のこと。

 〈信頼〉の本質は、盲目になって何かに身を任せることではなく、あやふやで、眼で見たり、触って確かめたりすることができない何かを、それでも信じることにある。この場合、まず、「存在に対する〈信頼〉」とは、何ものかが存在することの“意味”を〈信頼〉することを指している。

 したがって、「集団的に共有された人間一般に対する〈信頼〉」が身の回りの人々に対する〈信頼〉であるとすれば、「人間という存在に対する〈信頼〉」とは、世間や時代を超えて、この世界を生きてきた人間そのものが持つ意味への〈信頼〉を指すことになる。

 それは、過去から未来へと続く〈存在の連なり〉のなかで、さまざまな〈悪〉や不合理や困難に直面しつつも懸命に生きようとしてきた人々、そしてそうした人間が創り上げてきた“人間的世界”そのものに対する〈信頼〉であるとも言える。

 人はしばしば「人間的〈生〉」の哀苦や残酷さを前に、しばしばすべてが無意味なものに思えてしまうときがある。またさまざまな事情から、とても周囲の人々を〈信頼〉できるとは思えないときもある。こうしたときに問われてくるのは、その試みが結果的に徒労に終わるかもしれないというリスクを負いつつも、「より良き〈生〉」を思い、自らが現実に対して為すべきだと信じたことをやり遂げる心意気である。

 それを支えてくれるのは、たとえ異なる時代、異なる場所であっても、同じように「意のままにならない生」を生き抜いた人々の「生き方、あり方」である(「世間や世俗、時代を超えた〈役割〉」)。

 たとえその試みが、後の時代から見て誤りや失敗として映ったとしても、われわれはそうした人々の「生き方、あり方」から何かを受け取り、彼らの〈生〉を祝福することができる。それと同じようにして、仮にわれわれが自らの時代と真摯に向き合い、自らに与えられた「担い手としての生」を生き抜いたのならば、来たるべき人々もまた、いつの日にかわれわれの〈生〉やその痕跡を祝福してくれるだろう。

 ここでの「人間という存在に対する〈信頼〉」とは、そうした「世間や世俗、時代を超えた〈信頼〉」を基盤として、〈存在の連なり〉に生きる人間存在そのものを〈信頼〉することである(その願いは結果的に叶わないかもしれないが、叶わなければそれでもいい、しかし可能性がある以上そうであることを願いたい、という態度でいることが〈信頼〉にとっては重要である)。

 またこのことは、人間存在が自らの〈有限の生〉を「肯定」していく〈世界了解〉の概念とも密接に関わっている。