用語解説
〈無限の生〉の敗北(挫折) 【むげんのせいのはいぼく】
- 「そして「意のままにならない生」の現実は、闇夜の月のごとくわれわれの後をついて回り、最後は容赦なくわれわれの前に君臨する。要するに〈自己完結社会〉に生きるわれわれの苦しみ、その根底にあるのは、〈無限の生〉が提示してきた人間的理想と、われわれが直面する人間的現実との間に生じたとてつもない乖離、両者の間でわれわれが引き裂かれていることにあるのである。」 (下巻 123-124)
- 「そわれわれは認めなければならないだろう。一時代の人間の理想に魅せられたわれわれは、これまで「意のままにならない生」の諸前提をことごとく解体させてきた。そして「意のままになる生」が現実となっていく世界を実際に生きて、そうして最後は挫折したのである。われわれは「〈ユーザー〉としての生」に挫折し、〈自立した個人〉の思想に挫折した。そしてこのことは、われわれが〈無限の生〉という「世界観=人間観」に挫折したということを意味しているのである。」 (下巻 129)
現実の外部にある理念から出発して、そのあるべき理念に相応しく現実は改変されるべきだと考える〈無限の生〉の「世界観=人間観」は、人間存在には人間である限り避けられない物事がある(〈有限の生〉の五つの原則)という現実を前に必ず挫折するということ。
そしてその挫折に際しては、理念を実現させようと足掻けば足掻くほどに、かえって理念とは異なる現実を絶え間なく否定し続けなければならない「無間地獄」の苦しみとともに、あるべき理念が実現しない責任を人間存在そのものや自分自身に求めることによる自縄自縛の苦しみ(「この私」(人類)が“未熟”であるから、“怠惰”であるから、“愚か”であるから、あるいは“根本的な欠陥を持つ存在”だからだ…etc.)に陥ることになる。
注目すべきは、「現実を否定する理想」は、あまりに現実離れしたものである場合には、かえって人々をそれほど苦しめないということである。そうではなく、想定された理念がある面では実現する、または実現してもおかしくないと人々が認識するようになればなるほどに、人々の苦しみもまた深刻なものになる。
実際、「存在論的自由」の理想は、現実問題として、人々が伝統や慣習のなかに深く埋め込まれ、隣人との〈共同〉が文字通り避けられなかった時代においては、実存的な苦しみをそれほどもたらさなかった。
しかし〈生活世界〉の構造転換が進んで「〈ユーザー〉としての生」が拡大し、住むべき場所、携わるべき仕事、関わるべき他者など、個人的な〈生〉を形作るあらゆる事柄が自発性と自由選択に基づいてしかるべきだと認識される時代になると、人々はかえって「存在論的抑圧」に敏感になり、自発性と自由選択が制限されることに強い憤りを感じるようになる。
ここでの問題の本質とは、〈無限の生〉が提示してきた人間的理想と、われわれが直面する人間的現実との間に生じたとてつもない乖離にわれわれが引き裂かれていること、「意のままになる生」こそが「正常」であると信じてきた人々は、そこで「意のままにならない生」とともに生きるということの意味、そしてそのための術というものを、何ひとつ獲得せずに生きてきたことによる。
「熱鉄の寓話」と「殺生嫌いの寓話」は、いずれも一連の問題を、寓話を用いて説明したものである。