ディスカッション



〈自己完結社会〉の成立(上)
上柿崇英著


〈自己完結社会〉の成立(下)
上柿崇英著

環境哲学と人間学の架橋(上柿崇英 
/尾関周二編)
環境哲学と人間学の架橋
上柿崇英/尾関周二編


研究会誌『現代人間学・
人間存在論研究』

   

用語解説

   

「こうでなければならない私」 【こうでなければならないわたし】


 「端的に言おう。そこでは「意のままになる生」こそが「正常」となり、「意のままにならない生」の現実は「非正常」として認識されるようになる。自発性と自由選択が限りなく飽和していく世界のなかで、われわれを取り巻く「意のままにならないもの」たちは、やがてすべてが「不合理」で、「不当」で、「異常」なものとして認識されるようになるだろう。「かけがえのないこの私」は、こうして「こうでなければならないこの私」となるのである。」 (下巻 120



 自らの存在のあり方を自己決定していくことこそ人間存在のあるべき姿であると考える「存在論的自由」の理念の行きつく先で、人は誰でも、権威や権力といった外力によって歪められることのない唯一性を備え、その尊厳は無条件に尊重されるべきだとする自己認識(「かけがえのないこの私」)のもと、肥大化する自意識によって想像された理想の自分が「あるべきこの私」という形で理念化したもの。

 とりわけ〈生活世界〉の構造転換が進んで「〈ユーザー〉としての生」が拡大し、現実問題として、住むべき場所、携わるべき仕事、関わるべき他者など、個人的な〈生〉を形作るあらゆる事柄が自発性と自由選択に基づいてしかるべきだとの認識される時代になると、自発性と自由選択を通じて「意のままになる生」こそが「正常」な生の形、自発性と自由選択が叶わない「意のままにならない生」の現実は、「不合理」で、「不当」で、「異常」な生の形であると錯覚するようになる。

 そうすると、人々は「こうでなければならない私」が実現しない現実を、自分自身の欠陥や弱さに求め、自らを責め、自己否定の感情を募らせるようになる(〈無限の生〉の敗北)。しかしこの苦しみは、そもそも現実離れした「あるべきこの私」から出発したことに原因があるのであって、その意味において自縄自縛の苦しみであると言える(「皇帝の寓話」)。