ディスカッション



〈自己完結社会〉の成立(上)
上柿崇英著


〈自己完結社会〉の成立(下)
上柿崇英著

環境哲学と人間学の架橋(上柿崇英 
/尾関周二編)
環境哲学と人間学の架橋
上柿崇英/尾関周二編


研究会誌『現代人間学・
人間存在論研究』

   

用語解説

   

「本来の人間」(「あるべき人間」) 【ほんらいのにんげん】


 「そして第二は、「約束された本来性」、すなわちこの世界には未だ現実には現れていないものの、未来において実現することが約束された「本来の人間」なるものが存在するという想定である。・・・・・・「本来の人間」が未来において実現されるべきものであるとするなら、誰一人としてそれを目撃したことなどないはずである。それにもかかわらず、ここには「本来の人間」=「あるべき人間」が存在するという確信だけが先にあり、そこから照射して、現実の方が克服されるべきものとして捉えられているのである。」 (下巻 112



 「自由の人間学」に含まれる「約束された本来性」という前提を体現した人間に関する理念のことで、未だ実現していないにもかかわらず、未来において実現することが約束されているところの「あるべき人間」のこと。

 この「本来の人間」をめぐる想像力は、一方では、目の前の人間的現実を超えた理想の人間を掲げることで社会変革思想の基盤となったが、他方では、理念によって絶え間なく現実の人間を否定していく「無間地獄」に直面することにもなる。

 とりわけ「本来の人間」が「存在論的自由」の実現として理解されるとき、そこでは一切の外力に拘束されることのない人間という、現実にはありえない想定が持ち込まれ、人々はかえってそれを実現できない現実の人間や、現実の自己存在を絶え間なく責めなければならなくなる。

 その葛藤は、「〈ユーザー〉としての生」が拡大し、現実問題として、住むべき場所、携わるべき仕事、関わるべき他者など、個人的な〈生〉を形作るあらゆる事柄が自発性と自由選択に基づいてしかるべきだとの認識される時代になると、肥大化した自意識のもと、「こうでなければならない私」の理念と、「意のままにならない生」にまみれた「現実のこの私」との葛藤という形を取ることになる。

 なお、「本来の人間」が存在するという信念自体は、おそらくルネッサンス期のキリスト教に由来しており、その原型は、人間とは神の似姿を与えられた特殊な被造物であり、その被造物に神が与えた特別な計画や目的がないはずはないという信念である。

 その意味では、西洋社会は近代において人間存在の自由を、いわば「人間とは生まれながらにして自由である」という形で“発見”したわけだが、それは神の計画や目的をめぐる物語のなかに、「本来の人間」としての自由を発見したということでもあったのである。