ディスカッション


未来世界を哲学する―環境と資源・エネルギーの哲学)
未来世界を哲学する
環境と資源・エネルギーの哲学


〈自己完結社会〉の成立(上)
上柿崇英著


〈自己完結社会〉の成立(下)
上柿崇英著

環境哲学と人間学の架橋(上柿崇英 
/尾関周二編)
環境哲学と人間学の架橋
上柿崇英/尾関周二編


研究会誌『現代人間学・
人間存在論研究』

   

用語解説

   

「無間地獄」(〈無限の生〉の) 【むげんじごく】


 「例えばわれわれが「不自由」をひとつ取り除けば、われわれはそこに新しい「不自由」を「発見」する。そして「不平等」をひとつ取り除けば、われわれはそこに新しい「不平等」を「発見」するだろう。そうした理想は、「意のままになる生」という、決してたどり着くことのない「完全な人間」の物語に依拠している。そのため絶えず、現実を否定し続けていなければならないのである。それは言ってみれば、〈無限の生〉がもたらす「無間地獄」に他ならない。」 (下巻 118



 目の前にある「意のままにならない生」の現実は、人間が思うあるべき形に相応しく改変されるべきであると見なす〈無限の生〉の「世界観=人間観」のもと、思い描いた理想の実現を求めれば求めるほど、絶え間のない現実否定に直面すること。

 〈無限の生〉がこうした「無間地獄」に陥る原因は、その「世界観=人間観」が、現実の外部にある理念から出発して、理念に即して現実を価値づける「現実を否定する理想」の形態を取ること、そしてそうした理想が、人間には人間である限り逃れられない何ものかがあるという現実(〈有限の生〉の五つの原則)を受け入れることができないためである。

 そこではたとえ何かが実現しようとも、現実が理念と完全に一致することはありえないため、「まだだめだ」、「まだ足りない」と、現実を前にいつまでも思い悩まなければならなくなる。そして最終的には、あるべき理想を実現できない人間存在そのもの、あるいは自分自身を責めなければならなくなる。

 その意味では、〈自立した個人〉(個人は外的なものに服従することなく、自ら思考し判断できる主体になれる)も、「ゼロ属性の倫理」〈間柄〉なき〈関係性〉が可能であるとする)も、「積極的自由」「自由な個性と共同性の止揚」を通じて、負担なき〈共同〉が可能であるとする)も、「本当の私」〈他者存在〉から独立した〈自己存在〉が可能であるとする)さえも、それらが「現実を否定する理想」であることによって、「無間地獄」へと向かう共通の問題を孕んでいる。

 このことによって、近代的な価値理念としての、自由、平等、自律、共生、といった根源的な人間的理想そのものが、〈無限の生〉=「現実を否定する理想」として希求されることを通じて、われわれを「無間地獄」へ突き落とす危険性を秘めていることが理解できる(実際われわれは、自由、平等、自律、共生について、それが実現していないと嘆いてばかりだが、100年前の人々の生活を想起するに、〈ユーザー〉としての「自由」、「平等」、「自律」、「共生」という形で、それが着実に現実に具現化されてきていることを忘れている――たとえそれが理念のようにバラ色のものとして具現化していないとはいえ)。

 「無間地獄」から抜け出すための手がかりとなるのは、一連の苦しみが、そもそも現実の外部にある理念から出発したことによる自縄自縛の苦しみであるということである(「皇帝の寓話」)。

 そこで本書では、改めて〈有限の生〉から出発し、「意のままにならない生」を肯定してなお「より良き〈生〉」を希求していく〈有限の生〉の「世界観=人間観」を提起することになる。