ディスカッション



〈自己完結社会〉の成立(上)
上柿崇英著


〈自己完結社会〉の成立(下)
上柿崇英著

環境哲学と人間学の架橋(上柿崇英 
/尾関周二編)
環境哲学と人間学の架橋
上柿崇英/尾関周二編


研究会誌『現代人間学・
人間存在論研究』

   

用語解説

   

〈有限の生〉(の「世界観=人間観」) 【ゆうげんのせい】


 「それは、人間の〈生〉には自らの意思によって制御することができないもの、“逃れられない何ものか”が必ず存在するという前提に立ち、それを否定することなく、むしろ肯定することによって、自ら限りある存在としてのより良き〈生〉を希求していく、ひとつの「世界観=人間観」である。」 (下巻 110-111



 われわれのうちに深く内在し、われわれが物事を認識、判断する際に影響を及ぼす信念の体系(「世界観=人間観」)の一類型で、人間的な〈生〉においては、人間が人間である限り、決して意のままにできない何ものかが存在するとの前提に立ち(「意のままにならない生」)、それを否定することなく、むしろ「肯定」することによって、自ら限りある存在としての「より良き〈生〉」を希求していくもののこと。

 〈有限の生〉の「世界観=人間観」は、本書が提示する「人間的〈生〉」の根源原理を表現したもので、西洋近代哲学を通じて展開され、〈自己完結社会〉の成立を促進させている〈無限の生〉の「世界観=人間観」(目の前にある「意のままにならない生」の現実は、人間が思うあるべき「本来の人間」の理念に相応しく改変すべきであり、またそうした理念の具現化(現実化)こそが人間の使命であると考える)と対置される。

 〈有限の生〉には、少なくとも以下の五つの原則、「生物存在の原則」(第一原則)「生受の条件の原則」(第二原則)「意のままにならない他者の原則」(第三原則)「人間の〈悪〉とわざわいの原則」(第四原則)「不確実な未来の原則」(第五原則)が想定され、本書では「存在論的自由」を中心とした〈無限の生〉の試みが、このいずれの原則をも否定し、克服しようとしてさまざまな矛盾をもたらしてきたことが論じられる。

 理念によって現実を否定する〈無限の生〉は、結局人間が人間であること自体を放棄しない限り(〈無限の生〉のユートピア)、必ずこの五つの原則がもたらす「意のままにならない生」の現実に敗北し、「無間地獄」による自縄自縛の苦しみに陥ることになる(〈無限の生〉の敗北)。

 本書では、もしもわれわれが〈自己完結社会〉の成立に伴う〈関係性の病理〉〈生の混乱〉を回避し、また〈無限の生〉とは異なる道を進むみたいと願うのならば、こうした「〈有限の生〉とともに生きる」という地点から再出発しなければならないと主張される。

 もっとも〈有限の生〉=「意のままにならない生」を「肯定」することは、決してなし崩しに現実を肯定していくことではない。それは人間が生きることの哀苦や残酷さと一度は正面から向き合いながら、良くも悪くも自らが〈存在の連なり〉を生きることを「肯定」したうえで(「担い手としての生」)、「時代」やさまざまなものに限界づけられた自身の「生き方、あり方」を見いだしていくことを意味している(〈世界了解〉「自己への〈信頼〉」)。

 そこには、理念が実現しないがゆえの批判や、現実を塗り潰すほどの強権的な理想はなくとも、それぞれが与えられた人間的現実に寄り添い、より良く生きようとするための、別の形の批判や理想が存在しえる(「現実に寄り添う理想」)。

 無限の世界に、意味など存在しない。この世に「生きる意味」と呼べるものがあるとするなら、それはわれわれが〈有限の生〉を生きるからこそ見いだしうるものなのである。

 なお、〈有限の生〉の「世界観=人間観」は決して新しいものではなく、多くの文化圏において古代から継承されてきた伝統的な「世界観=人間観」は、一般的に〈有限の生〉を中心にしたものであった(その意味において、西洋近代哲学が創出した「世界観=人間観」こそが特殊なものである)。

 世界宗教として名の知れた仏教はもとより、〈無限の生〉の「世界観=人間観」の起原とも言えるキリスト教でさえ、ルネッサンス期以前には、〈有限の生〉の「世界観=人間観」に根ざしていたと言える(そこでは浄土や天国といった“いまここ”とは異なる世界が想起されたが、その教義の重点は、永遠の場所に何かを託しつつ、あくまで与えられた〈有限の生〉を精一杯生き抜くということに置かれており、“いまここ”を蔑ろにするものでは決してなかった)。