ディスカッション



〈自己完結社会〉の成立(上)
上柿崇英著


〈自己完結社会〉の成立(下)
上柿崇英著

環境哲学と人間学の架橋(上柿崇英 
/尾関周二編)
環境哲学と人間学の架橋
上柿崇英/尾関周二編


研究会誌『現代人間学・
人間存在論研究』

   

用語解説

   

〈世界了解〉 【せかいりょうかい】


 「すなわち〈世界了解〉とは、他者を含んだ「意のままにならない」この世界そのものに対して、あるがままのものを、あるがままのものとして一度は受け入れるという意思のあり方のことである。つまり〈有限の生〉を「肯定」するということは、突き詰めて言うなら、ひとりの人間存在が、こうした根源的な人間の宿命を受け入れていくこと、この〈世界了解〉を成し遂げていくということを意味しているのである。」 (下巻 143



 人間存在が自らの「意のままにならない生」の現実と対峙する際、それを否定することなく一度は「肯定」すること、また自身のできる精一杯のこと(「より良き〈生〉」)を為そうとして前を向き、現実と格闘していくために必要となる過程のこと。

 原始以来、人間存在にとって世界とは、「意のままにならない身体」「意のままにならない他者」がもたらす哀苦と残酷さに満ちたものであった。そしてこの事実はいまを生きるわれわれにとっても変わりがない(〈有限の生〉)。

 しかし人は、この世に生まれてしまった以上、そして望まなくとも出会ってしまったさまざまなものたちとの縁や〈関係性〉のもとでいまここに生き、また生かされている以上、そう簡単に死ぬことなどできなかった。生きて、目の前の現実と格闘しなければならなかった。

 もちろんすべてを否定し(あるいは誰かのせいにして)、可哀想な自分に耽溺し、現実を蔑ろにすることもできる。しかしどれほど嘆いたところで、現実は何も変わらないし、明日は来てしまう。〈世界了解〉とは、そうした感情と折り合いをつけ、われわれがしっかりと現実と向き合っていくための起点となるもののことなのである。

 もっとも人間的な〈生〉の現実はあまりに過酷で、ときに〈世界了解〉を成し遂げることは容易ではない(実際には、昨日はそのように思えたが、今日はとてもそのようには思えない、といったことの繰り返しだろう)。

 そのため人間存在は、何時の時代も〈世界了解〉を促し、現実と向き合う自身の手向けとなる言葉や意味を必要としてきた。そしてそうした言葉や意味が、ひとつのまとまった形をなしたものを〈思想〉と呼び、〈哲学〉〈芸術〉を、それ自体〈思想〉を表現したものだと捉えるなら、その中心にはやはり〈世界了解〉が内在していると考えることもできる。

 例えば人がある作品と出会い、そこに感慨を覚えるのは、その作品に、ある時代、ある境遇を生きたひとりの人間存在の、〈世界了解〉を成し遂げていく力強さ、〈世界了解〉を果たしえない哀苦の情、あるいは「美しく生きたい」(より良く生きたい)というその人の願いが込められていることを感受するからである(「生き方としての美」「美意識」)。

 また、古に生きた人々が、何ものかを神と呼び、この世界に人智を超えたよろずの物事を見いだしてきたのは、人々がそうしたものを仲立ちとして〈世界了解〉を成し遂げようとしてきたからだったと言えるのかもしれない(それは「より良き〈生〉」を生きるための知恵であると同時に、〈世界了解〉を達成していくための知恵でもあった)。

 われわれがすでにそうしたものを仲立ちにできないのであれば、現代人には、現代人に相応しいやり方での〈世界了解〉のための知恵や術が求められていると言えるだろう。そしてその手がかりのひとつは、われわれが依然として〈存在の連なり〉を生きているという事実のなかにある。

 例えば〈存在の連なり〉の先には、いまここにいるわれわれと同じように、〈世界了解〉を成し遂げようとして生き、そして死んでいった(死んでいくだろう)無数の人々の生がある。

 その「生き方、あり方」を思い、また〈信頼〉することによって(「人間という存在に対する〈信頼〉」)、人は自ら「担い手としての生」を生きることに勇気づけられるからである(仮にわれわれが自らの現実と真摯に向き合い、与えられた「担い手としての生」を生き抜いたのならば、来たるべき人々もまた、いつの日にかわれわれの〈生〉やその痕跡を祝福してくれるだろう――その願いは結果的に叶わないかもしれないが、叶わなければそれでもいい、しかし可能性がある以上そうであることを願いたい――そのような態度でいることが〈信頼〉にとっては重要である)。

 また〈世界了解〉は、たとえそれが不完全なものであっても、その人が現実と対峙しようと試みるならば、その格闘の事実によって支えられる。そして「自分だけの世界」に逃げ込み「意のままになる他者」を夢想するのではなく、あくまで「意のままにならない他者」と向かい、そこで生じる〈共同〉の負担を引き受け、〈役割〉〈信頼〉〈許し〉の経験を積み重ねていくことによって、はじめて人は「自己への〈信頼〉」と呼べるものに到達できるだろう。

 人間が生きることの〈救い〉というものがあるとするなら、それはこうした〈世界了解〉のなかにこそあると言える。