【本文】


未来世界を哲学する―環境と資源・エネルギーの哲学)
未来世界を哲学する
環境と資源・エネルギーの哲学


〈自己完結社会〉の成立(上)
上柿崇英著


〈自己完結社会〉の成立(下)
上柿崇英著

環境哲学と人間学の架橋(上柿崇英 
/尾関周二編)
環境哲学と人間学の架橋
上柿崇英/尾関周二編


研究会誌『現代人間学・
人間存在論研究』

   

『〈自己完結社会〉の成立』(下巻)
【第十章】最終考察――人間の未来と〈有限の生〉


(1)〈無限の生〉と〈有限の生〉――「世界観=人間観」という視座


 ここからわれわれはいよいよ最終考察へと進んでいくことにしよう。ここから見ていきたいのは、一連の分析を経てわれわれがどこへ向かっていくのかということ、“人間の未来”というものを見据えた際、われわれはこの現実といかにして対峙していけば良いのかという問題である。

 ここでわれわれは、もうひとつだけ新たな視点を導入することにしたい。それは、われわれが世界や他者と対峙する際、あらかじめ獲得している根源的な理解の枠組み、すなわち「世界観=人間観」と呼べるものである(1)。
 【第三章】で見てきたように、人間存在にとっての“世界”とは、感覚器官から得られた物理的情報を中枢神経が再構成したもの(「自然的環世界」)であると同時に、「社会的構造物」「社会的制度」「意味体系=世界像」といった「社会的なもの」によって基礎づけられるもの(「人為的環世界」)でもあった。
 このとき「世界観=人間観」は、「意味体系=世界像」と最も深く結びつき、われわれが成長していくなかで内面化される、世界それ自体、そして人間それ自体に対する形而上学的/認識論的諸前提と言えるものでもあるだろう。
 「世界観=人間観」は、われわれ自身が創りだしたものでありながら、同時にわれわれの認識や思考に先立って存在している。それゆえわれわれが行う判断や行動は、知らず知らずのうちに、そうした枠組みの影響を受けたものとなるのである。

 本書がここで、改めて「世界観=人間観」に着目するのは、この急速に進展していく〈生活世界〉の構造転換の背後にあって、〈自己完結社会〉の成立を強力に推し進めてきた、ひとつの「世界観=人間観」が存在するということを示すためである(2)。それは〈無限の生〉、すなわち「意のままになる生」こそが人間のあるべき姿であると考え、人間の使命とは、それを阻む「意のままにならない生」の現実を改変し、克服していくことであると考えるひとつの「世界観=人間観」に他ならない。

 確かにこれまで本書では、〈無限の生〉を、主として〈生の脱身体化〉を説明するための概念として取り扱ってきた側面がある(3)。
 例えば〈生の脱身体化〉が進行するとき、そこでは若さや老い、男性や女性、子孫を生み育てるといった、身体に由来する自明の前提が意味を失っていく。その結果われわれは、何もかもが実現されねばならないと錯覚し、決して“無限”ではない〈生〉の現実に直面して深い挫折に苛まれる、といったようにである。
 しかし「世界観=人間観」の視点に立てば、この問題が〈生の脱身体化〉だけではなく、実際には、〈生の自己完結化〉にも深く通底するものであるということが分かる。
 例えば〈生の脱身体化〉が人間存在の「意のままにならない身体」からの解放を意味するものだとすれば、〈生の自己完結化〉とは、人間存在の「意のままにならない他者」からの解放を意味するものだと言えるからである。
 つまり両者は、いずれも“身体”や“他者”といった、これまで人間存在が決して逃れることのできなかった〈生〉の諸前提から、われわれ自身が解放されるという点においては連続している。
 そして〈無限の生〉の理想からすれば、それらはいずれも「意のままになる生」という、人間の“あるべき形”が実現していくことを意味しているのである。
 われわれはこれから、この〈無限の生〉という「世界観=人間観」の成立こそが、〈自己完結社会〉の成立にあたって、決定的な役割を果たしたことについて見ていこう。
 そしてこの「世界観=人間観」の理想が最も体現されたものこそ、実はあの〈自立した個人〉の思想であったこと、それどころかその基本的な着想は、突き詰めれば西洋近代哲学の伝統そのもののなかに深く根を下ろすものであった、ということについて見ていきたい。

 加えてわれわれは、本章の後半で、〈無限の生〉に対抗するものとしての〈有限の生〉の概念を新たに導入しよう。
 それは、人間の〈生〉には自らの意思によって制御することができないもの、“逃れられない何ものか”が必ず存在するという前提に立ち、それを否定することなく、むしろ肯定することによって、自ら限りある存在としてのより良き〈生〉を希求していく、ひとつの「世界観=人間観」である。
 〈無限の生〉は、「現実を否定する理想」に根ざすがゆえに、理想とは異なる〈生〉の現実を絶えず否定し続けなければならない。そこにあるのは、理想が実現すればするほどに、かえって現実に新たな不条理を見いだしてしまう「無間地獄」であるだろう(4)。
 そこには、人間存在の〈救い〉など決してない。われわれが真に必要としているのは、〈有限の生〉ととも生きるということ、「意のままにならない生」を引き受けてもなお、より良き〈生〉を希求していくことの意味、そしてその道に至るための術だからである(5)。

(2)〈無限の生〉と西洋近代哲学の深淵 へ進む


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(1)われわれは【序論】において、哲学的方法論としての「現代人間学」における第三原則として「世界観=人間観の提示」をあげた。ここで述べた、新たな世界観、人間観、価値観そのものを構築していくことの意味は、本章での分析を通じて自ずと明らかになっていくだろう。
(2)われわれはこれまでの議論において、確かに〈社会的装置〉の台頭によって「意味体系=世界像」が矮小化されると論じてきた(【第二中間考察】を参照)。しかしそれは、必ずしも「意味体系=世界像」そのものが人間的世界から消滅することを意味しない。一連の変化は、「〈生〉の分析」のもとでは「人間的〈生〉」を掌握するための意味の通路が縮小していく過程として理解されるが、「世界観=人間観」のもとでは、それは〈無限の生〉の台頭に伴って、「意味体系=世界像」が〈生〉の現実からますます乖離していく過程としても理解することができるのである。
(3)【第二中間考察】および、【第三中間考察】を参照のこと。
(4)“無間地獄”とは、もともと仏教でいう八熱地獄の八番目に相当し、激しい苦しみが絶え間なく続き、楽の間が生じることがないことから無間地獄と称される。本書では、仏教的な意味合いではなく、まさしく「絶え間ない永続的な苦しみ」という意味合いのもとでこの語を借用している。『広説佛教語大辞典』(2010)項目「無間地獄」を参照。
(5)ここでの「より良き〈生〉」という概念は、〈有限の生〉とともに生きることを提起する本書にとって重要なものである。ただし本書が明らかにしたいのは、「より良き〈生〉」が――あるいは後述する「美しく生きる」ということが――ギリシャ哲学以来の「善き生」をめぐる議論のように、具体的に何を指しているのかということではない。なぜなら「より良く生きる」ことも、「美しく生きる」ことも、異なる時代、異なる境遇に生きる人間存在にとっては、違ったものになりうるからである。ここで明らかにしようとしているのは、そうしたものの“内容”ではなく、あくまで人間存在が自らの置かれた現実と格闘し、そのなかで、それぞれの形でそうしたものを見いだしていくことの“意味”についてである。