ディスカッション



〈自己完結社会〉の成立(上)
上柿崇英著


〈自己完結社会〉の成立(下)
上柿崇英著

環境哲学と人間学の架橋(上柿崇英 
/尾関周二編)
環境哲学と人間学の架橋
上柿崇英/尾関周二編


研究会誌『現代人間学・
人間存在論研究』

   

用語解説

   

「生き方としての美」 【いきかたとしてのび】


 「人が芸術(作品)に感動するのは、そこにそれぞれの時代、それぞれの境遇を生きたひとりの人間にとっての、〈世界了解〉を成し遂げていく人間的な強さ、〈世界了解〉を果たしえない人間的な苦しみ、あるいは「美しく生きたい」というその人自身の願いが表現されているからに他ならない。われわれが忘れていたのは、「鑑賞としての美」の背後にあるべき美意識の問題であって、それは何よりこうした「生き方としての美」を問題にするということを意味しているのである。」 (下巻 151



 “美”に対する向きあい方のひとつで、何ものかを通じてそこに人間存在の「生き方、あり方」の「美しさ」を感受していく態度のこと。現代において主流となっている「鑑賞としての美」(対象を、特定の普遍的価値を体現した作品と見なして鑑賞していく態度)に対置される。

 古代社会においては、一般的にこの二つの美のあり方はそれほど区別されていなかったが(「生き方としての美」は、かつては“美徳”と呼ばれていた)、芸術=美=感性を三位一体とするような西洋美学(aesthetics)が成立すると、「生き方、あり方」の問題は政治学や倫理学の範疇となり、〈美〉の問題とは切り離されて理解されるようになった。

 「生き方としての美」とは、「美しく生きる」ということであり、そうした〈美〉はわれわれが持つ「美しく生きたい」という願いに訴えかけ、自らの行いがはたして「美しい」ものだったのかと問い続ける力を持つ(「美意識」)。

 われわれがある〈芸術〉(作品)を見て心を動かされるのは、その〈芸術〉(作品)のなかに、ある時代、ある境遇を生きたひとりの人間存在による〈世界了解〉を成し遂げていく力強さ、〈世界了解〉を果たしえない哀苦の情、あるいは「美しく生きたい」(あるいは「誇り高く生きたい」、「誠実に生きたい」)というその人の願いを感受するからである。

 「誇り高く生きる」とは、「意のままにならない生」の現実を前に、現実との格闘を投げだすことなく、踏みとどまっていられる心の強さであり、「誠実に生きる」とは、〈存在の連なり〉のなかで「意味のある〈関係性〉」よって結ばれたものたちに恥じない生き方をしようとする気高さである。

 こうした契機は「人間という存在に対する〈信頼〉」とも深く結びつく形で、「〈有限の生〉とともに生きる」ために現実と格闘していく人々を勇気づけ、その人自身の〈世界了解〉を成し遂げていく術として、また与えられた現実から「より良き〈生〉」を模索していくための重要な手がかりとなるものである。