ディスカッション


未来世界を哲学する―環境と資源・エネルギーの哲学)
未来世界を哲学する
環境と資源・エネルギーの哲学


〈自己完結社会〉の成立(上)
上柿崇英著


〈自己完結社会〉の成立(下)
上柿崇英著

環境哲学と人間学の架橋(上柿崇英 
/尾関周二編)
環境哲学と人間学の架橋
上柿崇英/尾関周二編


研究会誌『現代人間学・
人間存在論研究』

   

用語解説

   

「自分だけの世界」 【じぶんだけのせかい】


 「人々が信じることができるのは、おそらく自分だけの時間と空間、言ってみれば肥大化した「自分だけの世界」だけである。そしてそれは、他者という脅威から逃れることのできる、「かけがえのないこの私」の“聖域”に他ならない。・・・・・・これこそが人々にとっての「自己実現」の形であり、それは皮肉にも、自由選択と自己決定を至高とする〈自立した個人〉の究極の形でもあるだろう。」 (下巻 47



 「〈生活世界〉の構造転換」のうちの「第五期:いまわれわれが立っている地点(2010年‐)」を中心とした人々の間で重要な位置を占めるもので、私的な時空間と、その時空間を脅かさない特定の他者(「意のままになる他者」)のみからなるもののこと。

 「第四期:情報化とグローバル化の進展まで(1995年‐2010年)」の人々が、自己の存在の不安定さから孤独に悩み、“つながる”ことに希望を見いだしていたのに対して、この時代の人々はSNSの肥大化とも相まって、“過剰接続”による疲弊から、むしろ“つながり”からの解放を願うようになる。

 「情報世界」は、リアル世界からの逃亡先として安寧としていられる場所ではなくなり、人々はさまざまな形でこの「自分だけの世界」を構築することに躍起になる(その実現は、自由選択と自己決定を至上とするという意味では、〈自立した個人〉の究極の形でもある)。

 しかし「自分だけの世界」は、「意のままにならない他者」という脅威から逃れられる聖域であると同時に、自分自身をしばりつける牢獄ともなる。というのもどれだけ「自分だけの世界」が充実しようと、人々は存在に揺らぐ自身の渇きが、「自分だけの世界」では決して満たされないということを理解してもいるからである。

 しかし「不介入」の楽園に馴れきった人々は、〈共同〉の負担に耐えることができず、結局は「関わりたいときに関わってもらえず、関わりたくないときに関わりを強いられる」といって、〈関係性〉に意味を求めること自体を次第に「諦め」るようになる。