ディスカッション



〈自己完結社会〉の成立(上)
上柿崇英著


〈自己完結社会〉の成立(下)
上柿崇英著

環境哲学と人間学の架橋(上柿崇英 
/尾関周二編)
環境哲学と人間学の架橋
上柿崇英/尾関周二編


研究会誌『現代人間学・
人間存在論研究』

   

用語解説

   

「生き方とあり方」 【いきかたとありかた】


 「もう一度思いだしてほしい。〈存在の連なり〉の遠い彼方には、同じ宿命に生きた、数々の人間存在の生き方、あり方があった。その無数の現実との格闘のなかに、人々が重ねてきた無数の理想や、挫折や、喜楽や、悲哀があった。われわれはそうした人々の〈生〉を、「意味のある過去」として「肯定」することができるはずである。それと同じように、仮にわれわれが時代と真摯に向き合い「担い手としての生」を生き抜いたのならば、来たるべき人々もまた、いつの日にかわれわれを「肯定」してくれるだろう。」 (下巻 55-56



 「時代」において生まれ、「時代」において生き、そして「時代」において死んでいくという人間的〈生〉の残酷さを覚悟するとき、そして自らの置かれた現実と対峙するとき、いまを生きる人々を励まし、その道標となる、〈存在の連なり〉の彼方にいる何ものかの〈生〉の痕跡と軌跡のこと。

 「人間的〈生〉」の現実を思えば、人にはすべてが無意味なものに思えてしまうときも、またさまざまな事情からとても周囲の人々を〈信頼〉できるとは思えないときもある。こうしたときに問われてくるのは、それが結果的に徒労に終わるかもしれないというリスクを負いつつも、「より良き〈生〉」を思い、自らが現実に対して為すべきだと信じたことをやり遂げる勇気である。

 それを支えてくれるのは、たとえ異なる時代、異なる場所であっても、同じように「意のままにならない生」を生き抜いた人々の「生き方、あり方」である(「世間や世俗、時代を超えた〈役割〉」「生き方としての美」)。

 そうした〈存在の連なり〉の彼方にいる何ものかとの「場の連続性」や「〈生〉の連続性」によって(「生きた地平」)、過去は単なる事実を超えた「意味のある過去」となり、自身が現実と向き合う“意味の源泉”としての潜在力を持つようになる。

 人は生きている限り、何かを選択し、何かを判断しなければならない。たとえその選択や判断が、後の時代から見て誤りや失敗として映ったとしても、われわれはそうした人々の「生き方、あり方」から何かを受け取り、彼らの〈生〉を祝福することができる。

 それと同じようにして、仮にわれわれが自らの時代と真摯に向き合い、自らに与えられた「担い手としての生」を生き抜いたのならば、来たるべき人々もまた、いつの日にかわれわれの〈生〉やその痕跡を祝福してくれるだろう。

 こうして「世間や世俗、時代を超えた〈信頼〉」を基盤として、〈存在の連なり〉に生きる人間存在そのものを〈信頼〉すること(「人間という存在に対する〈信頼〉」)、それは人間存在が自らの〈有限の生〉「肯定」していく〈世界了解〉の概念とも密接に関わるものである。