ディスカッション



〈自己完結社会〉の成立(上)
上柿崇英著


〈自己完結社会〉の成立(下)
上柿崇英著

環境哲学と人間学の架橋(上柿崇英 
/尾関周二編)
環境哲学と人間学の架橋
上柿崇英/尾関周二編


研究会誌『現代人間学・
人間存在論研究』

   

用語解説

   

「生物存在の原則」(〈有限の生〉の第一原則) 【せいぶつそんざいのげんそく】


 「それはわれわれが人間である限り、生存に関わるさまざまな要求、身体を持つことに伴うさまざまな制約から逃れられないということを指している。人は必ず生物存在の一員として生まれ、生物存在の一員として生き、そして生物存在の一員として死んでいく。……生物存在の基盤をなしているのは身体である。そのためわれわれの〈生〉には、臭い、汚い、きつい、痛いといった諸々の身体的なわざわいが生じてくる。そして怪我、病、障碍、老い、衰弱といった数多くの身体的な苦しみもまた出現してくるのである。」 (下巻 130



 人間が人間である限り、自らの〈生〉において決して意のままにできないものであところの〈有限の生〉をめぐる五つの原則のうちの一つで、生存に関わるさまざまな要求、身体を持つことに伴うさまざまな制約から逃れられないということ。

 西洋近代哲学においては、生物世界と人間世界が常々「野蛮」と「文明」の対抗軸に置かれ、理想を備えた人間のみが生物学的な本能を乗り越え、環境の制約を克服した理想世界を創出できると考えられてきた(「約束された本来性」「精神としての生活」)。

 しかし人間存在は紛れもなく生物存在の一員であって、人間の特性とは、生物世界の理から自由であることではなく、それ自体がヒトとしての生物学的な特性であると見なされなくてはならない(「環境哲学」)。

 本書が人間存在の営為の原点にあるものとして〈生存〉の実現という契機、また「集団的〈生存〉」を強調するのは、このためである。例えばどれだけ屠殺所を自動化し、どれほど部屋を無菌化し、どれほど美容に精を出したところで、われわれは生物存在としての残酷さそのものからは決して逃れることができない。

 したがって、「〈有限の生〉とともに生きる」こと、すなわち〈有限の生〉を「肯定」するということは、われわれが生物存在としての人間の宿命、そして身体を持つものとしての人間の宿命を受け入れていくということを意味している。

 人間存在は、「意のままにならない身体」とともに生きていかなければならないのであり、人間的世界の存続のためには、誰かが子孫を残していく必要がある。ここでは、こうしたことにわれわれが再び意味を見いだすことができるかどうかということが問われている。