ディスカッション



〈自己完結社会〉の成立(上)
上柿崇英著


〈自己完結社会〉の成立(下)
上柿崇英著

環境哲学と人間学の架橋(上柿崇英 
/尾関周二編)
環境哲学と人間学の架橋
上柿崇英/尾関周二編


研究会誌『現代人間学・
人間存在論研究』

   

用語解説

   

「第五期:いまわれわれが立っている地点(2010年‐)」


 「その先にあるものとして、今日のわれわれが生きる時代である「第五期」について改めて見ていく。それはまさに情報技術、ロボット/人工知能技術、生命操作技術の拡大によって、〈自己完結社会〉が台頭していく時代である。そこでは成長した〈漂流人〉たちが年を重ね、彼らによって生み育てられた、いわば〈漂流人〉の第二世代が成人を迎えることになる。」 (下巻 5



 〈自己完結社会〉が成立していく様子を、日本社会の具体的な歴史過程に即して論じた「〈生活世界〉の構造転換」のうちの第五の期間で、対外的には経済的なグローバル化の限界と、国際秩序の不安定化、対内的には「第四期:情報化とグローバル化の進展まで(1995年‐2010年)」以降の社会的な矛盾がますます深まり、失われた30年とも呼ばれる、いまわれわれが立っている地点(2010年‐)のこと。

 思想史的には、小さな流行が繰り返されるものの、かつての「第二次マルクス主義」「ポストモダン論」に匹敵するほどの時代を体現する思想は見られない(人文科学では、「第三期:高度消費社会の隆盛からバブル崩壊まで(1970年‐1995年)」に形作られた、「存在論的抑圧」からの解放と「自由な個性の全面的な展開」とをめぐる論点から拡張された、イデオロギーや権力構造の可視化、あるいはマイノリティの権利擁護をめぐる議論が、包摂や多様性、SDGsといったキーワードとともに敷衍される)。

 加えて〈生活世界〉の実体としては、監視カメラが日常化し、SNSが発達するなどして「〈ユーザー〉としての生」は、ますます利便性を向上させるものの、物理的に接触する他者は潜在的な〈共同〉の相手ではなく、自身の私的な時間、私的な空間が脅かすリスクとしてより認識されるようになり、互いの〈生〉に積極的に干渉しない「不介入の倫理」がいっそう拡大することになる。

 反面あらゆる〈生〉の問題は自己責任の論理で回収されるようになり、「〈共同〉のための作法や知恵」としての〈許し〉の原理やも解体することになる(ここでは誰もが他者から許されることを信じていないために、誰もが他者を許すことができない。そして誰もが他者を許さないために、誰もが他者から許されることを信じられずにいるという形での悪循環が生じることになる)。

 また「第四期」の人々が、自己の存在の不安定さから孤独に悩み、“つながる”ことに希望を見いだしていたのに対して、「第五期」の人々は“過剰接続”によってかえって疲弊し(リアル世界の「不介入」とは対照的に、「情報世界」においては、人々は容易に他人の〈生〉に介入し、恐ろしく感情的になる)、“つながり”からの解放を願うようになる。

 この時代の人々にとって、私的な時空間と、その時空間を脅かさない特定の他者(「意のままになる他者」)のみからなる「自分だけの世界」は、「意のままにならない他者」という脅威から逃れられる聖域であり、牢獄となる。

 ここで人々に体験される挫折は、どれだけ「意のままにならない他者」から逃れ、「自分だけの世界」で穏やかに生きたいと願っていても、結局は〈共同〉が避けられないという現実として降りかかる。

 ここにあるのは、われわれが〈ユーザー〉として自立しているからこそ、かえって〈関係性〉の負担が増大し、他者がいっそう抑圧的なものとして感受されるということ、さらにはその反作用として、皆が「不介入」を行使するからこそ、よりいっそう〈関係性〉の負担が増大するという悪循環である。

 それは〈存在の連なり〉からの接続を欠いた〈郊外〉で生まれ育った〈漂流人〉によって産み育てられた、〈漂流人〉の第二世代が成長していく時代でもある。