ディスカッション


未来世界を哲学する―環境と資源・エネルギーの哲学)
未来世界を哲学する
環境と資源・エネルギーの哲学


〈自己完結社会〉の成立(上)
上柿崇英著


〈自己完結社会〉の成立(下)
上柿崇英著

環境哲学と人間学の架橋(上柿崇英 
/尾関周二編)
環境哲学と人間学の架橋
上柿崇英/尾関周二編


研究会誌『現代人間学・
人間存在論研究』

   

用語解説

   

「不介入の倫理」 【ふかいにゅうのりんり】


 「「不介入の倫理」とは、端的には、互いに他者に対する介入を拒む代わりに、自身の人生にかかる責任はすべて自らが負うべきだとする倫理のことである。われわれにより馴染みのある表現を用いれば、「私は誰にも迷惑をかけていないのだから、あなたも私に一切の迷惑をかけるべきではない」――反転すると「私は誰からも迷惑をかけられていないのだから、私もあなたに一切の迷惑をかけるわけにはいかない」となる――とする倫理であると言えるだろう。」 (上巻 278



 「〈ユーザー〉としての生」が拡大した社会において人々が行使している現実的な倫理の形で、他者に対する配慮の結果として、互いの〈生〉に干渉することを積極的に忌避する態度のこと。

 社会学では、都市社会で一期一会に遭遇する人々が示すよそよそしさのことを指して「儀礼的(市民的)無関心」(civil inattention)と呼ぶが、「不介入の倫理」は、互いに重苦しい〈共同〉の機会がもたらされぬよう、相手を気遣い、配慮した結果として出現するという意味において、その先を行く事態として捉えられる。

 人々の間で「不介入の倫理」が成立するためには、互いが潜在的な「共同行為」の相手になりうるという認識が解体しなければならず、その前提として〈生の自己完結化〉を伴う「〈ユーザー〉としての生」の拡大が不可欠である。

 そこでは「〈生〉の三契機」の実現を〈社会的装置〉に委託することが可能になり、現実的な〈共同〉の必要性が減少していく一方で、〈共同〉のための人間的基盤が空洞化していき(「〈共同〉の破綻」)、「人間的〈関係性〉」を制御するための〈間柄〉〈距離〉のバランスが崩れる「0か1かの〈関係性〉」が蔓延していくと、身近で対面的な他者との〈関係性〉は、リスクや負担の高いものとしてのみ認識されるようになる。

 その結果として、自身が他者との〈関係性〉を負担だと認識するだけでなく、他者にとって自身との〈関係性〉は負担であると認識することから、〈関係性〉をやり過ごし、互いに負担をかけることなく、互いに傷を負わないための戦略として「不介入の倫理」という態度が形成される(こうしたプロセスは、「〈関係性〉の分析」(第三のアプローチ)から〈関係性の病理〉を説明するためのひとつの方法として位置づけられる)。

 また、「不介入の倫理」は互いの〈生〉に干渉しない代わりに、自身の〈生〉に降りかかる物事の全責任をひとりで背負うという意味で、自己責任の論理と深く結びついている。

 しかし実際には、そうした「無限責任」が可能であるという想定そのものが、「〈ユーザー〉としての生」がもたらすまやかしに過ぎない(そうでなければ「人間的〈生〉」の根幹に「集団的〈生存〉」の実現という目的が置かれることはなかったはずである)。人間存在には自身の〈生〉の責任をすべて負うことなどそもそも不可能なのであり、それゆえ「不介入の倫理」という戦略は必ず失敗することになる。

 さらにこうした「不介入の倫理」の諸特徴からは、〈自立した個人〉の思想の限界を十分に読み取ることができる。なぜならこうした事態は、モラルの低下や、私人化とはまったく異質のものであり、むしろ人々が自ら考え、自ら判断し、自ら行動する結果として、また他者を尊重し、何事かを強制しない態度を行使する結果として現れるもの、さらには人々が責任ある主体として自らの〈生〉の責任を負う覚悟のもので行使されるという面においては、明らかにそこで想定されてきた人間的理想を具現化しているとも言えるからである。

 端的に言えば、人々は自立していないからではなく、十分に自立しているからこそ「不介入」を行使しているという矛盾があるのである。