ディスカッション



〈自己完結社会〉の成立(上)
上柿崇英著


〈自己完結社会〉の成立(下)
上柿崇英著

環境哲学と人間学の架橋(上柿崇英 
/尾関周二編)
環境哲学と人間学の架橋
上柿崇英/尾関周二編


研究会誌『現代人間学・
人間存在論研究』

   

用語解説

   

「積極的自由」 【せっきょくてきじゆう】


 「この着想は、しばしば「積極的自由」(positive liberty)や「~への自由」(liberty to)とも呼ばれ、その背景にはJ・J・ルソー(J. J. Rousseau)からI・カント(I. Kant)に至る、きわめて長い西洋近代哲学の伝統がある。それを端的に表現するなら、“真の自由”とは、孤立した自我に従って放縦に振る舞うことでなく、「皆のため」であることが「自身のため」としても感受される境地であり、換言すれば、あたかも他者の喜びが自身の喜びとして、また他者の苦痛が自己の苦痛として感受されるような、まさしく“自己の自由”と“他者の自由”の調和に基づく、より高級な意志を獲得することである、ということになるだろう。」 (上巻 262-263



 J・J・ルソーを源流とする、自己の自由と他者の自由の両立を図る高級な意思という着想から派生したもので、「私のためであること」と「皆のためであること」が一致した意志のあり方としても言及される。

 I・バーリンは、こうした「~への自由」こそが全体主義を導くとして批判したが、〈自立した個人〉の理想や「牧歌主義的―弁証法的共同論」の文脈においては「自由な個性と共同性の止揚」を体現した姿として積極的に評価される。

 この概念の問題点は、人々がある種の意志に到達さえすれば、自発性と自由選択のもとでも、あらゆる「共同行為」が十全に、また自然発生的に成立するということになってしまい、人間の現実に反した予定調和が過度に強調されているところにある。

 本書では、こうした意志の状態が生の現実において出現する可能性を認めつつも、それはきわめて特殊で限定されたものであること、それをすべての人々に常時求めるのであれば、それは「強要された博愛主義」にしかならないと位置づけられている。