ディスカッション



〈自己完結社会〉の成立(上)
上柿崇英著


〈自己完結社会〉の成立(下)
上柿崇英著

環境哲学と人間学の架橋(上柿崇英 
/尾関周二編)
環境哲学と人間学の架橋
上柿崇英/尾関周二編


研究会誌『現代人間学・
人間存在論研究』

   

用語解説

   

「〈共同〉の破綻」 【きょうどうのはたん】


 「以上の分析を通じて、われわれは改めて、この社会においては、人々が〈共同〉していくための人間的基盤が――人々が置かれた環境という意味においても、人々が保持している能力という意味においても――失われていることに気づかされるだろう。われわれが生きているのは、その意味において、未だかつてないほどに〈共同〉することが困難となった時代に他ならないのである。 だが、ここで注意してほしい。このことは見方を変えれば、われわれが未だかつてないほどに〈共同〉から解放された時代を生きているとも言えるからである。」 (上巻 277



 人間存在が十全に、また継続的に〈共同〉を成立させるためにはさまざまな条件が必要となるものの、〈社会的装置〉に依存する「〈ユーザー〉としての生」が拡大した現代社会においては、そうした条件の多くが機能不全の状態に陥り、人々がいざ〈共同〉を実践しなければならない場面に遭遇しても、それがかつてなく困難になること。

 具体的には、「共同のための事実」「共同のための意味」「共同のための技能」が集団内において共有できなくなり、また〈共同〉の負担を少しでも緩和させようとして人間存在が長い年月をかけて構築してきた「〈共同〉のための作法や知恵」としての〈役割〉〈信頼〉〈許し〉の原理がいずれも働くなることを指す。

 ただしそうした現代社会は、見方を変えれば未だかつてないほどに人々が〈共同〉から解放された社会であるとも言える(実際、100年前の人々の生活を想起してみれば、今日の社会的現実において、〈共同〉しなければならない局面が劇的に縮小していることが分かる)。

 つまりここには、〈共同〉のための人間的基盤が失われた一方で、古来より人々が願ってきた〈共同〉の重圧からの解放という望みは着実に実現しているという矛盾が存在している。

 問題は、どれほど〈社会的装置〉や「〈ユーザー〉としての生」が高度化しても、われわれの〈生〉から〈共同〉を行わなければならない契機が完全に消えることなどないということである(〈有限の生〉の第三原則「意のままにならない他者の原則」および第四原則「人間の〈悪〉とわざわいの原則」)。

 したがって現代人は、日常的に〈共同〉を避けてきたがゆえに(「不介入の倫理」)、〈共同〉に対して不慣れで免疫がなく、かえって〈共同〉の必要性に迫られて、その重圧に耐えられないという事態に直面することになる。

 このことは、〈生の自己完結化〉〈生の脱身体化〉がどれほど進行しても、「意のままにならない他者」「意のままにならない身体」とともに生きること自体は避けられず、そのことによってかえって人々の苦しみが深まるという、〈自己完結社会〉が内包する矛盾をそのまま体現していると言える。