『〈自己完結社会〉の成立』(下巻)
【第九章】〈自己完結社会〉の成立と〈生活世界〉の構造転換
(3)構造転換の“過渡期”と〈旅人〉の時代
続いて見ていく「第二期」は、戦後復興から高度経済成長期までの期間(1945年‐1970年)」である。それは先の「二五歳=一世代の例え」に即して言えば、2020年基準でおよそ、読者の祖父母から曾祖父母らまでが読者の同年代として生きた時代に相当する。
その時代の外観は概ね次のようになるだろう。まず「第二期」は、戦争による破壊の後、GHQによる占領政策から開始された(34)。そこではいわゆる五大改革が進められ(35)、象徴天皇制(36)、国民主権(37)、平和主義(38)を基軸とした新たな憲法が発布された(39)。
しかし戦後復興の傍らで、世界はまもなく米ソ対立の時代に突入していく(40)。ここで日本は大きな決断を迫られることになった。すなわち片面講和と安保条約(日米安全保障条約)の締結によって、西側陣営の一員という形で早期の主権回復を実現すること、そして米軍基地と引き替えに、平和憲法を維持したまま軍備を最小限にとどめ、その余力を経済成長に集中させていくという道の選択に他ならない(41)。
その後日本は、「もはや戦後ではない」という合い言葉とともに高度経済成長の時代へと入っていく(42)。目指されたのは、欧米並みの生活水準の向上、充実した社会保障、そして完全雇用の実現であった(43)。焼け野原から出発した戦後日本は、こうして米国に次ぐ世界第二位の経済大国にまで登り詰めていくことになるのである。
思想史的な文脈から見れば、「第二期」はまさしく「再建と理想の時代」であった(44)。戦後的理想、それは端的には「悪しき戦前」と対置されるものとしての「平和主義」(45)と「民主主義」(46)の実現、そして換言すれば、あの悲惨な戦争に対する悔恨が生んだ、平和国家日本という名の希望であった(47)。
この時代を生きた人々が格闘していたのは、こうした理想の実現と、それを阻む数多くの現実とをめぐるものだったからである。
例えば戦後まもなく、一連の理想を政治理論という形で表現したのは丸山眞男であった。丸山によれば、先の戦争をもたらした根源的な背景には、「無責任の体系」と「抑圧の移譲」という、日本社会を深く蝕む前時代的な構造があった(48)。
それゆえ、この国が真に民主的な平和国家となるためには、まずもってこの前時代的構造が克服されなければならない。とりわけ「同族的紐帯」や「祭祀の共同」、そして「隣保共助の旧慣」などに典型的に見られる個人の埋没した精神文化を克服すること、そして人々が真に個人としての主体性を身につけていくことこそが不可欠であると説いたのである(49)。
こうした「近代主義」と呼ばれた人々こそ、まさに戦後思想の方向性を大きく決定づけた人々であった(50)。ここでは乗り越えるべき対象が、「悪しき戦前」から日本文化そのものにまで拡張され、その手段として徹底的な西洋化が肯定されている(51)。そしてここでは、あの〈自立した個人〉の理念が、理想的な人間類型という形で本格的に導入されることになったからである(52)。
とはいえ戦後的理想は、こうした精神文化の問題以前に、より直接的、現実的な側面において困難に直面していた。それは前述したように、そもそも戦後日本が片面講和、安保条約、米軍基地、自衛隊に象徴される、矛盾を孕んだものとして出発した側面があったからである。
そしてこのことが、戦後日本の政治文化に対して多大な影響を及ぼすことになった。そこでは冷戦を背景とした経済理念の対立に加え(53)、一方では安保体制の現実的な肯定と、それを前提とした経済的な繁栄を受け入れるのか、他方ではそれを是とせず、あくまで「平和主義」と「民主主義」の理想を希求し続けるのかという、独特の対抗軸が形成されるようになったからである(54)。
そうした対立がひとつの頂点に達したのは、おそらく「六〇年安保闘争」であっただろう(55)。このとき国会の周囲を埋め尽くした人々の脳裏にあったのは、安保改正をめぐる現実的な国益の問題というよりも、戦後的理想に直接関わる理念的な問題であった(56)。
もちろんそこには全学連をはじめとして、科学的社会主義の立場から、日本政府を「資本」や「米帝」の走狗と見なした人々がいただろう(57)。しかしそれよりも重要なことは、このとき強引に改正を進める岸内閣の姿が、人々には「悪しき戦前」への回帰を推し進め、「平和主義」と「民主主義」を蔑ろにし、再びこの国を戦禍に導くように見えていたことであった(58)。
人々の目に映っていたのは、現実を盾に戦後的理想を「毀損」しようとする国家権力の横暴と、そうした権力に立ち向かい、立場を超えて自発的に連帯する「良心的な“市民”」の姿だったのである(59)。
こうした“運動”が新たな局面を迎えたのは、戦後日本が矛盾を抱えたまま、ますます拡大する“豊かさ”に飲み込まれていく時代、そして直接的な戦争の記憶に乏しい世代――とりわけ戦後のベビーブームとともに生まれ、後に「団塊の世代」と呼ばれるようになる人々を含む――が現れるようになってからのことである。
まず、学生たちが向かったのは「大学紛争」であった(60)。注目したいのは、ここでの批判の矛先が、国家や大学を含む、日本社会のあらゆる権威主義的な産物――それは当然「悪しき戦前」を彷彿とさせる――に向けられていたこと、それどころか理想の徹底を成し遂げられなかった、戦後初期の年長世代に対しても向けられていたことである(61)。
それとは反対に、この時期になると、「戦前」に対する美化や憧憬のみならず、“文化”や“伝統”の意味を問うといった形で、悔恨にまみれた戦前理解の再定義を試みようとする人々が現れてくるようになる(62)。
こうした人々は、総じて戦後的理想に対する“推進者”と“反動者”という観点から、“左翼”や“右翼”として規定された。しかし戦後的理想を一度は真に受け、豊かさによって覆い隠されつつある戦後社会の欺瞞を暴き、その矛盾と正面対決を試みたという点においては、両者は驚くほど一致した側面を持っていたとも言えるだろう(63)。
とはいえ、こうした理想と現実をめぐる格闘はいつしか流行らなくなっていく。悠然と社会を包摂する豊かさと繁栄を前に、人々は各々の生活のなかに帰って行き、「浅間山荘事件(64)」や「三島事件(65)」といった極端な事件を最後として、運動の季節は終わりを告げることになるからである。
さて、こうした時代を背景として、「第二期」における〈生活世界〉の実態とはいかなるものであったのだろうか。
まず、この時代のはじまりにおいて、日本列島は空襲によって都市という都市が破壊されていた。疎開から戻った人々が目にしたのは、瓦礫の山や闇市のほか、多くの寡婦や行く宛のない戦争孤児、そして負傷した帰還兵らの姿であった。戦禍がすべてを破壊しつくし、GHQによって華族、財閥、地主らが解体されたことから、「第一期」に見られた「二極化」した社会は、ここでいったん消滅したとも言えるだろう。
多くの人々は困窮してはいたが、皆が同じ戦禍の記憶を共有しており、また同じように貧しかった。そのため、生き残った人々には特有の〈共同〉の基盤があった。そして彼らは、この苦労を次世代には決して背負わせまいとして、まさに懸命に働いたのであった。
〈生活世界〉に変化が訪れるのは、復興の時代が終わり、高度経済成長の時代に入ってからのことである。この時期になると、都市部では家電製品が普及し、沿岸部にはコンビナートが並び、列島の中央には高速道路や新幹線が敷かれるようになる。
こうした都市部の成長を支えていたのは、主として地方出身の労働者たちであった。なかでも中卒の若者たちは「金の卵」と呼ばれたが、当時はこうした人々が毎年数万人の規模において、卒業とともに専用列車に乗り込み、一斉に都市へと流入したのである(66)。
庶民が憧れた「三種の神器」――白黒テレビ、電気洗濯機、電気冷蔵庫――は、やがて「3C」――カラーテレビ、自動車(カー)、クーラー――へと変わっていった。単身都会へと出てきた人間であっても、努力を重ねて懸命に働けば、誰もが“豊かな暮らし”に手が届くように思われた。
そこにあったのは、まさしくわれわれが古き良き時代として思い描く昭和日本の姿だっただろう(67)。とはいえ反面、都市と農村の間には、再び格差が開きつつあった。地方では、農業の機械化が進んだとはいえ、人口流出が極端に進み、「かあちゃん、じいちゃん、ばあちゃん」からなる「三ちゃん農業」という言葉が流行していた。
いずれにせよ若者たちは、こうして豊かさに憧れ、都会に旅立ち、そして貧しさが残る故郷への思いを噛みしめながら、毎日を懸命に働いたのである(68)。
そうした意味においては、われわれが先に見た華々しい“運動”の世界は、限られた人々による、いわば〈生活世界〉の表層でしかなかったことだろう。数多に繰り広げられた理念闘争を一皮むけば、そこには依然として生々しい“生活”が横たわっていた。
もちろん“豊かな暮らし”の拡大は、徐々にではあったが、着実に「〈共同〉のための事実」を侵食していただろう。実際、伝統的な生活組織は、このときますます形骸化が進んでいた。しかし丸山が前時代的な精神文化の温床として捉えた、あの旧時代からの〈共同〉の基盤は、ここでも基本的には存続していた。
そこには依然として、隣人との〈共同〉が不可欠であるという生活からの要請があったからである。こうした枠組みが全社会的な構造転換に至るためには、おそらく「第三期」を待たなければならない。「第二期」はそうした意味において、“過渡期”に相当したのである。
なお、「第二期」が“過渡期”だったことは、この時代を生きた人々に散見される〈旅人〉的性格とも無関係ではないように思える。
一般的に“旅人”とは、文字通り「旅路にある人、旅行をしている人」のことを指している(69)。しかし“旅”が成立するためには、そこに「旅立つ場所」と「旅をする目的」がなければならない。つまり自身の存在の起点となる場所が最初にあり、そこから遠くに到達すべき何ものかを見通すことができるからこそ、人は旅に出ることが可能となる。
航海に例えるのであれば、船は「母港」があるからこそ出港でき、「目的地」があるからこそ海原に繰りだす意味が芽生えるのである。
「第二期」を生きた人々には、おそらくこうした〈旅人〉としての条件がすべて備っていた。
まず、彼らにとっての「母港」とは、多くの場合“故郷(ふるさと)”と呼ばれるものを指していた。出稼ぎ労働者たちにとっては、それは文字通り自らを育んだ故郷の大地を意味しただろう。だが、都会へ出た若者たちが涙とともに想起したのは、大地の記憶のみならず、そこでともに過ごした人々との記憶であった。
彼らにとっては、そうした記憶の総体こそが、いわば自己の原点となりうる〈故郷〉だったのである(70)。その意味では、〈故郷〉を携えていたのは出稼ぎ労働者たちだけではなかった。
例えば貧しさに苦労を重ねて死んでいった両親の記憶、それは残されたものにとってある種の〈故郷〉になりえるものであった(71)。あるいは自身の門出に際して、多くの夢を託す形で送りだしてくれた人々――それは家業を継ぐために夢を諦めざるをえなかった友人たちだったかもしれないし、自身を幼少期から包んでくれた同じ村の人々だったかもしれない――がいるのであれば、そうした記憶もまたある種の〈故郷〉になりえただろう。
より広い意味においては、敗戦まもなくの人々にとっては、戦争に対する悔恨そのものがある種の〈故郷〉であった。そして運動期の人々にとっては、戦後的理想にあらゆる希望を託した前世代の存在そのものが、ある面では〈故郷〉だったとも言えるのである。
他方で彼らは、同時にそうした〈故郷〉と離別し、航海に出ていく明確な「目的」があった。出稼ぎ労働者たちにとっては、それは都市部での“豊かな暮らし”を手に入れることであっただろう。同様にして、大切な人々との記憶を背負う人々にとっては、それは自らが立派に身を立て、彼らに恥じない人間として成長することだったと言えるかもしれない。
さらには戦後的理想の実現も、真の「近代化」という夢も、おのれの〈故郷〉と決別し、「航海」に出ていくに値するだけの十分に価値あるものだったのである。
だが別の観点から見れば、この時代が“過渡期”だったことそのものが、ある面では人々を〈旅人〉に変えた側面もあっただろう。「第二期」の日本社会においては、一方では重厚な〈生活世界〉が、そして他方では勃興しつつある〈社会的装置〉とが、ある種の二重構造をなしていた。
〈旅人〉たちにとって、〈生活世界〉は自らを育んだ〈故郷〉でありながら、同時に変わりゆく時代のなかで、嫌悪し、敵対し、克服していくべき対象でもあったのである。
そうした人々が、〈生活世界〉に根ざしたあの泥臭い〈共同〉を「前時代的だ」と言って責め立てるとき、実は彼らはもう一方の足で、〈社会的装置〉がもたらす“新たな生活”という基盤のうえに立っていた。しかしひとたび〈ユーザー〉として生きることに挫折したあかつきには、いつでも彼らは〈生活世界〉に帰ってくることができたのである。
その意味からすれば、「大学紛争」の時代、角棒とヘルメットで武装した学生たちは、どこまでも〈旅人〉的な存在であった。あの時代、機動隊に火炎ビンを投げつけ、バリケードによって占拠した構内を「解放区」と呼び、半ば本気で国家権力そのものからの解放を掲げた彼らの挙動は、いったい何を物語っていたのだろうか(72)。
この時代にJ=P・サルトル(J.-P. Sartre)が好んで読まれ、実存主義が流行したことは、おそらくこの運動に隠されたもうひとつの主題を読み解く鍵であると思われる(73)。
〈自立した個人〉として生きる美徳を聞かされながら育った彼らは、豊かさに邁進していく社会のなかで、実は〈生活世界〉のしがらみからはじめて自由になること、まさに自らの人生の主人公となりうる最初の人々でもあった。難解な哲学書や文学書を読みかじり、国家社会を熱っぽく論じ、そして自らを規定しようとする世間の壁に抗いながら、彼らは自立した“主体”として、ある種の「自己表現」さえ行っていた側面があったのである(74)。
しかし彼らがそうした実存の微睡みに酔いしれることができたのは、古い世代の人々が、それを許容しうるだけの社会の度量を堅持し続けてきたからでもあった。「解放区」を夢見た彼らは、旧時代の〈生活世界〉を否定し、返す刀で勃興しつつある〈社会的装置〉をも否定していた。しかしその実、その気にさえなれば、その両方ともに帰れる場所があることを知っていたのである。
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(34)無条件降伏を行った日本は、このとき外地と呼ばれたほぼすべての領土――具体的には、朝鮮半島、台湾、南樺太、千島列島(北方四島より北、カムチャツカ半島に面する占守島まで)、南洋諸島(現在のパラオやマーシャル諸島などを含む)、遼東半島先端部(関東州)――を失った。そして占領に伴って、ある意味では一度この地上から姿を消したのである。とはいえわれわれは、この降伏が少しでも遅ければ、日本国そのものが永久に消滅するというシナリオさえありえたことを知っておく必要があるだろう。例えばソ連は、北方領土どころか北海道の半分を要求していたことが知られており、米国側でも、武力制圧の後に米国による直接統治を敷くことや、コスト削減を目的としてソ英中をも加えた分割占領案などが計画されていたからである。詳しくは五百旗頭(2001)を参照。
(35)五大改革として知られているのは、女性の参政権、労働改革(労働組合の合法化)、教育改革(教育の自由化、民主化)、特高警察の解体、経済機構の民主化(財閥解体)である。またこの時期、他にも華族制度や枢密院の解体、農地改革(地主制解体)、司法改革などが矢継ぎ早に断行された。詳しくは五百旗頭(2001)を参照。
(36)天皇をあらゆる権力の総攬者として位置づける明治憲法下の天皇制に対して、象徴天皇制は、天皇を政治的実権の伴わない、もっぱら国家や国民統合の象徴として位置づけるものである。ただし【注9】でも見たように、明治憲法下の天皇制においても、多くの建前や不文律によって、天皇の政治参加は限定的なものであった。人々にとって天皇は専制君主というよりも、すでに日本という国家、伝統、文化、歴史を体現する存在であると同時に、国土と人民の平安を祈る道義的存在としての側面を備えていた。実際、敗戦まもない世論調査において、天皇制廃止(共和制、大統領制への移行を含む)を求める声はわずか9%に過ぎず、実に9割の人々が天皇制の存続を望んでいたこと、しかもそのうちの半数以上が、天皇の位置づけをめぐって、「政治の圏外、民族の総家長、道義的中心」を望んでいたという興味深いデータがある。詳しくは五百旗頭(2001:267-268)を参照のこと。
(37)前述のように、明治憲法では主権者は天皇とされていた。
(38)憲法九条が規定する“平和主義”については、今日では自衛権(個別的)や自衛戦力の保持が許容されると考えるのが一般的である。しかし九条の成立過程や当時の国会答弁を詳しく見ていくと、もともとそれは自衛権や自衛戦力の保持さえ放棄する徹底的なものだったことが読み取れる。よく知られているのは、「マッカーサーノート」の段階にはあった「自国の安全保持の手段としての戦争」をも放棄するとの直接的な表現が、GHQ草案の段階では削除されたこと、またその後の調整過程でたまたま「前項の目的を達するため」という文言が追加されたことが、結果的に自衛権や自衛戦力の保持は容認されるという“憲法解釈”の余地をもたらしたとする興味深いエピソードである。自衛権の放棄は、国連を中心とした集団的安全保障が完全に機能することを大前提としたものであって、現代のわれわれにはそれがいかに危いものであるのかが理解できる。しかし当時の世界は新たな世界秩序の構築段階に位置し、日本は先の見えない軍事占領下にあった。自衛権や自衛戦力の保持に対する当時の人々のある種の「無関心さ」は、もともと九条が、ある意味ではそうした現実の追認でしかなかったことにも由来するのかもしれない。以上の詳しい内容については、五百旗頭(2001)および古関(2009)を参照。
(39)日本国憲法がGHQによる英語の原案を母体としていることから、現憲法はしばしば「押しつけ憲法」との批判がある。確かにGHQ案を受け入れるかどうかをめぐって、GHQ側から放たれた「この案は天皇反対者から天皇のpersonを護る唯一の方法である」(小関 2009:161)との言葉は、脅迫にも近いものであっただろう。ただしGHQ側はこの時点で天皇制存続の意思を固めており、むしろ天皇制に不寛容な極東委員会が動きだす前に、いち早く十分な改正を実現しなければならないという事情があった。また「押しつけ憲法」論とは逆に、民間の憲法草案――例えば高野岩三郎、鈴木安蔵らが率いる憲法研究会のものを含む――がGHQに影響を与えたことを根拠として、日本国憲法の原型は日本側が作ったと断言するのも、やや公平性を欠く主張であるように思える。詳しい内容については五百旗頭(2001)および古関(2009)を参照。
(40)第二次大戦において枢軸国側が敗れたことで、第一次大戦後に構想された新たな世界秩序の枠組み――不戦条約、国際平和機構、民族自決を含んだ――は、より強力な形で復活することになった。国際連合には安全保障理事会と国連軍が整備され、民族自決の原則は植民地支配が続くアジア/アフリカにおいても適用された。とりわけ核兵器の登場は、第三次大戦の勃発がそのまま人類の破滅を意味することを世界に印象づけており、世界が目指したのは、徹底した国連中心主義によって、先の理想を今度こそ実現するということであった。ところが十分な復興もままならぬうちに、二大巨頭となった米ソの対立が表面化し、世界はまもなく米国を盟主とする経済的自由主義/議会制民主主義/北大西洋条約機構陣営(西側陣営)、およびソ連を盟主とする計画経済/一党独裁/ワルシャワ条約機構陣営(東側陣営)との間で分裂することになる。すなわち冷戦の出現によって、人々の期待はまたもや裏切られることになったのである。
(41)米ソの対立は、国連中心主義を前提とする平和国家を目指した日本にとって深刻な事態をもたらした。決定打となったのは、朝鮮戦争を契機に米国の対日政策が反転し、日本が西側陣営の一翼を担うことを期待し、憲法において禁じたはずの早期の再武装さえ要求するに至ったことである。片面講和と日米安全保障条約は、このとき吉田茂(当時首相)が編みだした苦肉の“戦法”であった。それは事実上、米国が共産圏に対する世界戦略の拠点として日本の基地を自由に活用できるということを意味しており、後に見るように、米国側には日本に対する防衛義務がないなどといった著しく不均衡な内容が含まれていた。ちなみにこうした要請のなかで誕生したのが、自衛隊の前身となる警察予備隊である。詳しくは河野(2002)、五百旗頭(2001)を参照。
(42)日本経済は、早くも1952年の段階で戦前の規模にまで回復していた。「もはや戦後ではない」という文言は、1956年に経済企画庁の『経済白書』で用いられたのが最初であるとされている。猪木(2000)。
(43)かつて「生産の無政府状態」(Anarchie der Produktion)(エンゲルス 1966:95、Marx/Engels 1987:215)と呼ばれた資本制社会は、いまや政府の介入や計画の導入、行政サービスの充実化によって「改良」されつつあった。日本ではこの時期、国民健康保険法(1958年)や国民年金法(1959年)などが相次いで整備され、1961年には国民皆保険が実現したとされている。猪木(2000)、河野(2002)を参照。
(44)後に言及する社会学者の見田宗介(1995)は、この「第二期」を「理想の時代」や「夢の時代」と呼んだが、それは同時代を生きた見田自身の実感を伴ってのことだろう。ここで本書が言及する“理想”とは、人間社会は人々が望む最良の形へと変革することができるし、自分たちにはそれを実現できる能力が備わっているとする素朴な信念のことを指している。
(45)平和主義や民主主義は、概念としてそれぞれに長い歴史を持っている。しかし戦後的理想のなかで語られたこれらの概念は、「戦前」を絶対悪として対置し、その文脈において著しく理想化された特殊な概念であったと思われる。例えばここでの「平和主義」とは、戦争を国是として推し進めた「戦前」の絶対的な否定として、究極的には自衛をも含む一切の戦争行為を拒絶する絶対的平和主義のことを指している。そしてそうした「平和主義」が理想とするのは、国連を唯一の例外として、すべての国家が武装を解除した究極の国連中心主義である。前述した憲法九条は、世界がいつの日かそうした理想に到達することを信じ、まずはわれわれが自ら率先して武装解除を試みたものとして理解されてきた。「非武装中立論」を牽引してきた石橋政嗣は次のように述べている。「いちど核戦争が起きれば勝者も敗者もない現状においては、どうして侵略に対処するかというよりは、どうして戦争を防ぐかの方が格段に大切なことなのであります。……軍事力によらず、いかなる国とも軍事同盟を締結せず、あらゆる国々と友好的な関係を確立するなかで、攻めるとか攻められるとかいうような心配のない環境をつくり出し、国の安全を確保しようという憲法の考え方を実践することこそ、まさに時代の先端を行くものであります」(石橋 1980:40)。例えばわれわれが同盟国への軍事協力や、他国の軍事的脅威に備えることに対してでさえ多くの葛藤を伴うのは、実はこうした理想がいまでもこの国に深く根づいていることを物語っているのである。
(46)前注に引き続き、戦後的理想としての「民主主義」は、「戦前」の絶対的な否定に基づき――それは文脈に応じて反軍国主義、反権威主義、反全体主義などさまざまな形に変化するのであるが――究極的には国家権力そのものの否定にまで結びつく特殊な概念である。それを端的に示すのは、「愛国心」に対する理解だろう。例えば一般的な共和主義においては、「愛国心」は民主主義が十全に機能するために不可欠なものとして理解される。しかし「民主主義」においては、きわめて素朴に軍備や国家を含む一切の権力装置が不在となるなかでの究極的な“市民の連帯”が想起されるのであって、そこでは「愛国心」は、世界益(人類益)から目を背け、国家権力に追従するものとして理解される。小熊英二(2002)は、「戦後民主主義」と一言で述べても、丸山眞男ら戦後初期の知識人と、吉本隆明ら運動期の知識人との間では、その理解に大きな隔たりがあったことを指摘している。小熊によれば、前者の理解はより一般的な共和主義に近く、そこでは「〈民主〉と〈愛国〉」は必ずしも矛盾するものではなかった。したがって一連の「民主主義」の理解が完成したのは、まさに理想主義が頂点に達した運動期であったと言うべきだろう。
(47)先の戦争は出征した兵士だけでなく、銃後の人々にとっても悲惨な体験であった。身近な人を亡くさなかった人間もいなければ、戦争の遂行に一切関わりがなかった人間もいなかった。生き残った人々は、皆それぞれの形で“あのとき”を背負って生きて行かねばならなかったのである。丸山眞男は敗戦後の知識人が共有していた感情を、「将来への希望のよろこびと過去への悔恨」の分かちがたい結合という意味において「悔恨共同体」と呼んだが(丸山 1996:254)、こうした心情は当時を生きた人々の多くに共通する心情であったと思われる。小熊(2002)も参照。
(48)この二つの概念は、丸山が戦後まもなく『超国家主義の論理と心理』(1946)や『軍国支配者の精神形態』(1949)などにおいて展開したものである。丸山によれば、戦前の日本は天皇制(国体)を背景として、国家そのものが道徳的権威と政治的権力とを一元的に占有し、官吏や軍人を含めて、全国民が天皇を頂点とした権威/権力のヒエラルキーに配置されることになった(正確には、天皇本人もまた神代から続く万世一系の権威によって配置された)。そしてそこでは皆が自らの良心の如何においてではなく、与えられた権威とその配置に基づいて行動するため、誰もが自らの行為に責任を持つことがなく、至る所で独善と追従がはびこることになった、というのである。「我が国の場合はこれだけの大戦争を起こしながら、我こそ戦争を起こしたという意識がこれまでの所、どこにも見当たらないのである。何となく何者かに押されつつ、ずるずると国を挙げて戦争の渦中に突入したというこの驚くべき事態は何を意味するか。……こうした自由なる主体的意識が存せず、各人が行動の制約を自らの良心のうちに持たずして、より上級の者(従つて究極的価値に近いもの)の存在によって規定されていることからして、独裁観念にかわって抑圧の移譲による精神的均衡の保持とでもいうべき現象が発生する」(丸山 1964:24-25、傍点ママ)。
(49)「同族的紐帯」、「祭祀の共同」そして「隣保共助の旧慣」は、われわれの議論においては、いずれも〈生活世界〉において育まれた〈共同〉の枠組みとして位置づけられるものである。しかし丸山にとって、それらは「内部で個人の析出を許さず、決断主体の明確化や利害の露わな対決を回避する情緒的直接的=結合態」(丸山 1961:46)でしかなかった。丸山の理解では、天皇制(国体)とこの〈共同〉の枠組みとが、換言すれば「頂点と底辺の両極における「前近代性」の温存と利用」(丸山 1961:45)こそが、乗り越えられるべき「戦前」を駆動させてきたものの正体に他ならなかったからである。そのうえで丸山は次のように結論する。「雑居を雑種にまで高めるエネルギーは認識としても実践としてもやはり強靱な自己制御力を具した主体なしには生まれない。その主体を私達がうみだすことが、とりもなおさず私達の「革命」の課題である」(丸山 1961:66、前半の傍点は筆者による)。
(50)丸山と同じく「近代主義」と呼ばれた人物に大塚久雄がいる。大塚の言葉を再掲しておこう。「「近代的人間類型」の創出の成否如何が、少なくとも一つの不可欠な条件として、わが国の平和的再建の成否を、したがってわが国が世界史上再び国際的な名誉を回復しうるか否かを、まさしく、左右することになるだろう。……「近代的人間類型の創造」は、裏から見れば、あの「魔術からの解放」という世界史過程の最後の一歩であり、その徹底化を意味するものにほかならない」(大塚 1969:235、傍点は筆者による)。ここでの「近代的人間類型」が、丸山の言う良心と責任を備えた主体としての個人を、またここでの「魔術」が、丸山の言う天皇制(国体)と「隣保共助の旧慣」を母体とした「無責任の体系」に相当することは明らかであろう。彼らに共通していたのは、明治国家の改革が概して不徹底な近代化であり、西洋社会を範とした真の「近代化」こそが何よりも急務であるとの認識だったのである。大塚の議論については【第八章:第二節】も参照のこと。
(51)こうした「第二期」の西洋化は、先に見た「第一期」のものとは根源的に性質の異なるものであった。「第一期」の西洋化が、あくまで「西洋との対峙」を試みるためのひとつの選択だったとするなら、「第二期」の西洋化は、日本文化を否定(克服)し、文字通り自らが“西洋になる”ことを希求するものだったからである。
(52)われわれはここで、再度〈自立した個人〉の定義について振り返っておくことにしよう。それはすなわち、「人間の本質を個人に見いだし、それぞれの個人が何ものにもとらわれることなく、十全な自己判断/自己決定を通じて、意志の自律を達成している状態」を理想とする人間学のことであった。
(53)米ソの対立は単なる覇権争いではなく、人間社会の理想をめぐるイデオロギー対立でもあった。東側陣営が依拠した「マルクス=レーニン主義」は、自らの体制を「科学的社会主義」(Wissenschaftlicher Sozialismus)と呼んだが、そこには自らの体制こそが“科学”――自然科学に限りなく近い意味での――に基づく、最も進歩的なものであるという自信が込められていた(エンゲルス 1966)。その理論によれば、資本制社会は「生産の無政府状態」を通じて必然的に貧富を拡大させ、繰り返し恐慌に伴う大量失業を発生させる。共産主義が、私的所有や市場経済の廃止と、計画経済の必要性を説くのはこのためである。またエンゲルスによれば、国家の存在意義はまずもって階級を固定化することにあり、革命によって階級そのものが消滅するなら、暴力装置としての国家もまた必然的に消滅する(エンゲルス 1966:109、Marx/Engels 1987:224)。そしてその「国家の死滅」に至る過渡的措置として現れるのが、労働者による一時的な独裁体制なのであった(マルクス/エンゲルス 1977:40、Marx/Engels 1987:28)。共産主義が議会制民主主義の廃止と一党独裁の必要性を説くのはこのためである。1950年代の段階においては、東西のイデオロギーのうちどちらがより優れた体制なのか、またどちらが最終的に勝利するのかといったことは誰にも分からなかった。かつての世界恐慌において、ソ連だけが計画経済を採用するがゆえにまったくの無傷であったことは、長年西側陣営のトラウマとなっていた。1960年までに独立したアジア/アフリカ諸国のうち、少なくない国家が社会主義を標榜したこともまた、おそらくこうした時代背景と無関係ではない。とりわけ「一切の失業が存在しない社会」という看板は、未だ貧困にあえぐ多くの国々にとって魅力的な響きを持つものだったのである。
(54)この対立こそ、いわゆる「五五年体制」――自由民主党(自民党)を主とした、親米/安保保持/経済自由主義を掲げる保守勢力が政権与党を歴任し、社会党ら、反親米/反安保/反経済自由主義を掲げる革新勢力が野党となって繰り返し政権批判を行うという枠組み――と呼ばれる、90年代までの政治文化の基軸をなすものであった。このうち政権を担った自民党は、自由党――戦後まもなく安保体制を築いた吉田茂の伝統を引き継ぐ――が、改進党――安保体制を「真の独立」とはみ見なさず、憲法改正(自主憲法)と再軍備の必要性を訴えてきた反吉田勢力――などと合流する形で成立した。これに対して野党の主軸となった社会党は、労働組合などを支持母体とし、「全面講和」、「中立堅持」、「軍事基地反対」、「再軍備反対」からなる「平和四原則」を掲げて与党に対抗した(ちなみに戦後合法化された共産党は、「獄中非転向」の伝説から一時人気を博したのだが、ソ連主導の共産主義組織(コミンフォルム)の日本支部のごとき側面があり、民族独立と暴力革命を目指して過激化した結果、このときすでに求心力を失っていた)。ただし社会党の内部には、議会制民主主義内での社会主義的改革(社会民主主義)を目指す右派から、将来的な一党独裁を目指す「永久政権論」を掲げる左派に至るまで、かなりの思想的な振れ幅が存在しており、このことが繰り返し分裂の火種となっていた。いまでこそ社会民主党(社民党)として細々と存続している社会党であるが、当時は自民党に対抗する最大勢力として君臨していたこと、またこのとき党の実質的な主導権を握っていたのは、「永久政権論」を掲げた左派勢力の方だったということは記憶にとどめておいても良いだろう。詳しくは河野(2002)、原(2000)を参照。
(55)「六〇年安保闘争」とは、岸信介(当時首相)による旧安保条約の改定阻止を目的とした全国規模の運動のことを指している。このとき運動には、社会党や共産党といった野党勢力の他にも、総評、中立労連、原水協、護憲連合、青年学生共闘会議(全学連を含む)など多数の団体が参加していた。そして最盛期には数万人規模のデモ隊が国会前を埋め尽したほか、全国の商店が一斉に閉店ストを行ったことでも知られている。詳しくは猪木(2000)を参照。なお、当時の雰囲気を多面的に描いた映画作品として、大島渚監督の『日本の夜と霧』(1960)がある。
(56)【注41】でも見たように、旧安保条約は米国側に日本の防衛義務がなく、内乱発生時には米軍が出動するといったきわめて不均衡な内容を含むものであった。このような不均衡が生じた背景には、平和憲法を盾に本格的な再軍備を拒絶した日本側が米軍を防衛する能力を持たない以上、日米に対等な同盟関係はありえないとする米国側の主張があった。岸が目指した条約改正の主眼は、こうした不均衡の是正にあり、新条約には「内乱条項」の撤廃のほか、日本に対する米軍の防衛義務、米軍基地攻撃時への自衛隊の協力――在日米軍基地は日本領土でもあるので、これは集団的自衛権ではなく、個別的自衛権の範疇であると解釈された――核の持ち込みや作戦行動の事前協議などが盛り込まれていた。つまり国益や実益という観点から見れば、新条約は十分それに見合うものであったとも言えるのだが、運動側が見ていたのはそれとはまったく異なる“理念”としての側面だったのである。詳しくは、河野(2002)、猪木(2000)を参照。
(57)【注53】でも見たように、“科学的社会主義”を自称した「マルクス=レーニン主義」は、この時点においてはまだ勢いを失っていなかった。V・レーニン(V. Lenin)によれば、成長した独占資本は国家権力と結託し、資本の矛盾を解決しようとして他国を侵略する。これが「史的唯物論」によって定義される「帝国主義」(Imperialismus)の概念であった(レーニン 1956)。例えばこのとき、全学連(全日本学生自治会総連合)を主導していたブント(共産主義者同盟)――もともとは共産党の青年部に属していたが、「極左冒険主義」の放棄を機に党から離脱した学生中心のグループ――が批判していたのは、こうした観点から捉えた「帝国主義」の代表格としての米国と、そうした米国へとますます従属を深めるかのように見える日本政府の姿であった。またこの時代、「米国は世界の侵略勢力であり、ソ連は世界の平和勢力である」との言説がしばしば語られたが、その背景にあったのも、東側陣営は国際平和のためにやむなく対「帝国主義」戦争を断行しているとの認識であった。猪木(2000)を参照。
(58)前掲の小熊(2002)も指摘しているように、岸内閣の行動は、確かにさまざまな点において「悪しき戦前」への回帰を人々に連想させるところがあった。具体的には、岸が“憲法調査会”を設置したこと(岸はもともと「真の独立」や「自主憲法」を掲げた改進党系の政治家であり、それが憲法改正を見据えたものであることは明らかであった)、“警職法”の改定に着手したこと(職務質問や身体検査を「犯罪を犯すと疑うに足る相当の理由のある者」に拡大するものであり、実際には旧安保の「内乱条項」の削除と引き替えに米国側から求められていた措置でもあったのだが、それが人々に治安維持法の復活を連想させた)、国会での採決時に「強行採決」を行ったこと(座り込む野党議員を警察官まで動員して排除したことは、強権的な軍部独裁を連想させた)、さらには岸自身がかつて商工大臣として総動員体制の確立に深く関与した人物であったこと、などがそうである。詳しくは猪木(2000)を参照。
(59)60年代は、人々が“運動”に魅せられた時代であった。「六〇年安保闘争」が人々に印象づけたのは、労働者、学生、主婦などを含むさまざまな立場の人々が、「何か行動を起こさなければ」という良心にしたがい、立場をこえて連帯した姿であった。こうした人々は、後に反戦運動、反核運動、女性運動など多彩な運動の経験を経て、久野収(1996)や小田実(1986)らによって“市民”と呼ばれるようになる。これは“ブルジョアジー”とも“公民”とも異なる、今日われわれが“市民運動”や“市民団体”というところの特殊な意味での市民概念である。そしてこのとき見られた自発的な連帯の姿こそが、おそらく「第四期」になって、「自由な個性」と共同性が止揚された「アソシエーション」として理想化されるものの原風景となったものなのである。
(60)「大学紛争」は、大学運営への反発に端を発した学生らによる一連のデモ活動のことを指している。なかでも1969年の東大紛争では、安田講堂を占拠した学生らに対して機動隊が出動する事態となった。こうした大学紛争のひとつの背景には、大学の急速な「大衆化」と、それに伴う教育/経営体制の質的な劣化があったと言われている。実際政府は1957年に「理工系学生8000人増募計画」を発表しており、5%程度に過ぎなかった大学/短大進学率は、1965年までに25%あまりに急増していた(とはいえ彼らは、社会全体からすれば依然として“エリート”と言うべき存在だっただろう)。猪木(2000)。
(61)全共闘(全学共闘会議)を含め、そこで目指されていたのは、一切の権威も権力も存在しない究極の「民主主義」の実現であったと言える(【注46】を参照)。彼らが見ていたのは、教えられたはずの戦後的理想とはかけ離れた日本社会の現実であり、彼らにとっては、おそらく年長世代の知識人もまた、そうした社会にあぐらをかくだけの存在に見えていたのだろう。全共闘の思想については、東大全共闘経済大学院闘争委員会(1969)を参照。なお、前掲の小熊(2002)によれば、このとき彼らが年長者を責め立てる手段のひとつとなったのが、自らの“悔恨”ばかりに耽溺し、加害者責任を果たしていないという批判であったという。
(62))新しい世代のなかには、絶対悪としての「戦前」や、その否定として形作られた戦後的理想の枠組みそのものを受け入れられない人々がいた。そこには、例えば戦前社会を素朴なノスタルジーとして語る人々や、「昭和維新」や特攻隊に見られる愛国心や生き方を審美的に評価する人々、その他にも三島由紀夫(2006)のように、伝統や文化の意義を改めて問おうとした人々など、さまざまな立ち位置の人間が含まれていた。
(63)三島由紀夫は東大全共闘との討論において「諸君もとにかく日本の権力構造、体制の目の中に不安を見たいに違いない。私も実は見たい。別の方向から見たい」(三島/東大全共闘 2000:10、傍点は筆者)、「天皇を天皇と諸君が一言言ってくれれば、私は喜んで諸君と手をつなぐのに、言ってくれないからいつまでたっても殺す殺すと言っているだけのこと」(三島/東大全共闘 2000:111)と述べている。ここからは“右翼”や“左翼”といった偏狭な枠組みを超えでる形で、戦後的理想が抱える欺瞞と向き合わざるをえなかった世代の人々、それでいてまったく異なる道へと進まざるをえなかった人々の面影を看取することができるだろう。
(64)「浅間山荘事件」(1972年)は、学生運動の一派閥であった連合赤軍の青年たちが引き起こした立て籠もり事件であり、このとき内部のリンチによって16人の仲間が殺害されていた事実は世間に衝撃を与えた。渡邉(2000)を参照。
(65)「三島事件」(1970年)は、すでに作家として成功していた三島由紀夫が、市ヶ谷駐屯地に乗り込み、憲法改正と自衛隊の決起を訴えた後、その場で「盾の会」の同志とともに割腹自殺を遂げた事件のこと。確かに、三島の行動は極端に見えるものだったかもしれない。しかし『文化防衛論』(1968)をはじめとする彼の著作からは、その行動の背景にあるものが、単なる戦前へのロマンティックな憧れに基づくものではなかったことが読み取れる。三島が事件の数ヶ月前に発表した事実上の「遺書」である『果たし得ていない約束――私のなかの二十五年』(1970)には、次のように書かれている。「私が憎んだもの……それは戦後民主主義とそこから生ずる偽善というおそるべきバチルスである。こんな偽善と詐術は、アメリカの占領と共に終わるだろう、と考えていた私はずいぶん甘かった。おどろくべきことには、日本人は自ら進んで、それを自分の体質とすることを選んだのである。政治も、経済も、社会も、文化ですら」(三島 2006:369)。
(66)こうした就業形態は集団就職と呼ばれ、卒業生たちは、しばしば職業安定所や学校が仲介する形で都市部の化学繊維や電気機器などの企業にまとまって就職した。就職先と直接の面接もなく入職することもあったという。詳しくは猪木(2000)、山口(2016)を参照。
(67)「三種の神器」、「3C」、「三ちゃん農業」を含め、ここで述べている高度経済成長期の日本の情景については、猪木(2000)を参照。
(68)当時の流行歌である『僕は泣いちっち』(守屋浩歌、浜口庫之助作詞/作曲、1959)、『ああ上野駅』(井沢八郎歌、関口義明作詞、荒井英一作曲、1964)、『リンゴ花咲く故郷へ』(三橋美智也歌、矢野亮作詞、林伊佐緒作曲、1957)といった作品からは、こうした人々の心情を豊かに感じ取ることができるだろう。
(69)『広辞苑』(2018)項目「旅人」を参照。
(70)こうした“故郷”の概念についても、前述した『リンゴ花咲く故郷へ』のほか、『仲間たち』(舟木一夫歌、西沢爽作詞、遠藤実作曲、1963)、『帰ろかな』(北島三郎歌、永六輔作詞、中村八大作曲、1965)など、当時の流行歌が参考になるだろう。
(71)美輪明宏が自作し歌った『ヨイトマケの唄』(1965)は、いじめられていた少年が“土方で働く母の姿”を拠り所として成長していく姿を歌ったものである。「母ちゃん見てくれこの姿」という歌詞からは、ここで述べる存在の起点としての〈故郷〉に類似するものを感受することができるだろう。
(72)繰り返すように、国家権力そのものの否定という主題は、戦後的理想を形作る重要な要素のひとつであった。例えば吉本隆明は運動期の代表的な知識人であったが(谷川/吉本ほか 2010)、彼の『共同幻想論』(1968)には「人間はしばしばじぶんの存在を圧殺するために、圧殺されることをしりながら、どうすることもできない必然にうながされてさまざまな負担をつくりだすことができる存在である」(吉本 1982:37)と述べられ、“国家”とは、そうした人間たちが生みだした「共同幻想」に過ぎないとされている。そこで吉本は明言することを避けてはいるものの、おそらく少なくない人々が、ここで改めて幻想としての国家権力からの解放という課題を看取したのである。
(73)「人間は自由の刑に処せられている」(サルトル 1996:51、Sartre 1996:39)で有名なサルトルは、〈生活世界〉のしがらみから自由になりつつある新しい世代の抱えた問題を見事に表現した人物であった。サルトルによれば、人間は確かに自身を規定しようとする他者からの“まなざし”のなかで生きている。しかし自身の生き方(実存)を決めるのは自分自身であり、可能性に自らを投じ、その責任を引き受けるところからその人が何ものであるのか(本質)が形作られる。つまり与えられた自由を引き受け、その責任とともに自らの可能性に賭けるということ。「実存は本質に先立つ」(サルトル 1996:39、Sartre 1996:26)という言葉から人々が受け取ったのは、おそらくこうしたメッセージだったのである。
(74)例えば、1969年当時立命館大学の学生で、鉄道自殺によって亡くなった高野悦子の日記からは、失恋し、民青にも全共闘にも馴染めず焦りを募らせていく、いつの時代も変わらない一女学生の姿を見ることができる(高野 2003)。またこうした観点から、小熊英二の以下の指摘は多くの示唆を含んでいるだろう。「筆者は「あの時代」の叛乱を、一過性の風俗現象とはみなしていない。だが、一部の論者が主張するような「世界革命」だったともみなしていない。結論からいえば、高度成長を経て日本が先進国化しつつあったとき、現在の若者の問題とされている不登校、自傷行為、摂食障害、空虚感、閉塞感といった「現代的」な「生きづらさ」のいわば端緒が出現し、若者たちがその匂いをかぎとり反応した現象であったと考えている」(小熊 2009a:14)。