【本文】


未来世界を哲学する―環境と資源・エネルギーの哲学)
未来世界を哲学する
環境と資源・エネルギーの哲学


〈自己完結社会〉の成立(上)
上柿崇英著


〈自己完結社会〉の成立(下)
上柿崇英著

環境哲学と人間学の架橋(上柿崇英 
/尾関周二編)
環境哲学と人間学の架橋
上柿崇英/尾関周二編


研究会誌『現代人間学・
人間存在論研究』

   

『〈自己完結社会〉の成立』(下巻)
【第九章】〈自己完結社会〉の成立と〈生活世界〉の構造転換


(2)重厚な〈生活世界〉と〈社会的装置〉の萌芽


 まず、われわれが最初に振り返ることになる「第一期」は、近代国家日本の成立から敗戦までの期間(1868年‐1945年)である。
 それは先の「二五歳=一世代の例え」に即して言えば、2020年基準でおよそ、読者の祖父母の両親から読者の祖父母の祖父母の祖父母にあたる人々までが、読者と同じ年代だった頃の過去に相当する。

 その時代の外観は、概ね次のようになるだろう。まず「第一期」は、明治新政府による“江戸”からの決別から始まった(7)。「王政復古」の号令とともに政治的実権を掌握した新政府は、改めて“天皇制”を国体の中央に定め(8)、また西洋諸国の諸制度を模倣する形で近代国家としての枠組みを一から整備していった(9)。
 一連の試みは成功を収め、国内には近代的な都市や産業が次々に発達していくことになる。日清/日露の両戦争での勝利を契機として、日本は対外的には、名実ともに“列強”と呼ばれた19世紀的な帝国主義国家の一員となった(10)。
 そして第一次大戦によって西洋諸国の勢力が後退すると(11)、その間隙を縫う形で大陸進出を進めていくことになる(12)。しかし最終的には、敗戦を通じて一度すべてを失うことになるのである(13)。

 思想史的な文脈から見れば、「第一期」を生きた人々の格闘の軌跡は、およそ「西洋との対峙」という言葉に集約することができるだろう。
 まず、明六社を筆頭とする明治初期の知識人たちが心血を注いだのは、西洋諸国の諸制度のみならず、その背景となっている思想や世界観を理解することであった(14)。不平等条約を締結せざるをえなかった過去を受け止め、この国を諸外国と対等に渡り合える国家にすること、それは改革を急いだ新政府の旗手たちも含め、当時の知識社会の一致した目標だったのである(15)。

 とはいえそれは、単なる西洋至上主義ではなかった。
 明治末期から大正期には、新たな形の文芸、学問が展開されていくことになるが、そこには西洋的技法を導入し、自らその実践者となった人々だけでなく、西洋に触れることでかえってこの列島で培われてきた精神や美意識を再発見する人々、そして両者を踏まえた独自の世界を希求する人々が存在していたからである(16)。
 彼らが直面していたのは、われわれの“生き方”や“あり方”に関わる根本的問題であって、ある面では不可避の西洋化を引き受けつつ、われわれ自身がそうした現実といかなる形で折り合いをつけていくのかという問題だったのである。

 昭和初期になると、第一次大戦、ソ連の出現、世界恐慌などを受けて、西欧の没落がまことしやかに語られるようになる。そして経済的自由主義や議会制民主主義、個人主義といった理念は、もはや時代遅れの産物であるとの認識が世界的に拡大していった(17)。
 そうした時代にこの国で語られた「世界史的立場」や「近代の超克」は、多くの矛盾を秘めていたとはいえ、一面においては日本社会が自らの生き方やあり方として独自の道を模索し続けたひとつの結果でもあった(18)。
 われわれは敗戦によって多くを失ったが、それは国家の挫折のみならず、一連の「西洋との対峙」の果てに直面した、「日本思想」の試みそのものの挫折でもあったのである(19)。

 さて、こうした時代を背景として、本章の主題となる〈生活世界〉の実態、すなわち〈生活者〉としての人々の眼前にあった等身大の世界とはいかなるものだったのだろうか。
 まず、最初に指摘しておかなければならないのは、「第一期」の日本が完全に二極化した社会であったということである。前述のように明治期の改革は大きな成功を収め、都市部においては急速に近代的な産業が発達した。とりわけ大正期/昭和初期においては、機械、造船、化学といった重工業が展開するとともに、三井、三菱、住友、安田といった財閥が台頭し、東京や大阪においては自動車、地下鉄、百貨店なども見ることができた(20)。
 人々はそこで喫茶店や映画館に足を運び、新聞や雑誌を手に取り、そしてラジオやレコードから流れる音楽に耳を傾けた。サラリーマン家庭が住む一戸建には電気や水道が供給され、室内には冷蔵庫や洗濯機といった家電製品さえ見ることができた(21)。
 文学者は都市特有の自由な空気を称賛する傍ら、匿名の個人となって生きることの孤独や葛藤について作品を書いた(22)。要するに、そこには現在のわれわれにも通じる生活様式、大衆的な都市社会の姿がすでに出現していたのである。

 しかしそれとは対照的に、圧倒的多数が生活する地方や農村においては、人々はむしろ江戸からの連続性をほとんど保って生きていた。
 確かに身分制度は廃止され、私有財産が導入され、移動の自由も実現した。しかし〈生活世界〉の次元においては、われわれがこれまで「伝統的共同体」と呼んできたもの、「〈生〉の三契機」を実現しようとして生身の〈生〉と肉薄してきた人々の姿が、ここでは未だに続いていたのである(23)。
 目を見張るのは、多くの欠食児童、不衛生、高い乳幼児の死亡率、子女の身売りなどが象徴する“貧困”の実態だろう。明治維新も帝国議会の設立も、一般庶民の生活にはほとんど影響を及ぼさなかった(24)。
 むしろ土地の売買が可能になったことによって、大地主が生まれ、小作人に転落する人々が数多く出現していた(25)。人々は改革の意味を理解できないまま、ただただ暮らしが楽になることを願い、そうして期待を裏切られる度に暴動を引き起こしたのであった(26)。

 別の言い方をすれば、そこにはわれわれが素朴に想起するような、絵に描いたような資本主義社会がそのまま出現していたとも言える。困窮していく農村や労働者の傍らで、地主や財閥といった富裕層だけが幅を利かせ、議会はあたかも、彼らが自身のパイの取り分を協議するための委員会であるかのように見えた。
 当時、労働運動や共産主義運動は弾圧の対象であったが、それでもそこに身を投じる人々が繰り返し出現した(27)。世界恐慌後に政府の要人を狙ったテロやクーデター未遂事件が相次いだのも(28)、背景にはこうした深刻な社会不安があったのである。

 とはいえわれわれはそうした目線にばかり囚われてはならない。一部の都市生活者の豊かさは例外的な先取りであって、長い歴史の尺度から見れば、人間の生活というものは元来そうしたものだったからである(29)。
 われわれはむしろ、人々が厳しい現実のなかでも精一杯〈生〉を実現させてきたということ、つらい肉体労働、働けども楽にならない暮らし、そのなかでも知恵をしぼり、ときにささやかな喜楽を分かち合いながら逞しく生きてきた姿に着目する必要がある。
 確かに伝統的な“ムラ”は行政区分としての“村”に再編されたが、それは表層的な制度の問題に過ぎなかった。【第五章】で見てきたように、人々は、いまなお先代より続く生活組織――例えば労働組織(ユイ、道普請など)、水利組織、祭祀組織、信仰組織(講)、消防/防犯組織といった――を軸に、自らの力によって〈生活世界〉を整備し、互いの協力によって「人間的〈生〉」を実現させていたからである(30)。
 こうした〈共同〉に基づく相互扶助という側面から見れば、当時の都市に生きる一般庶民も同様であった。大都市には多くの新規住民が流入していたが、そこでも例えば町内会や自治会が、あるいは青年会や婦人会などが生活組織としての側面を持ち、人々は防犯、防火、美化清掃を含むさまざまな相互扶助を協力して実現させていた側面があったからである(31)。

 もちろんわれわれは、こうした相互扶助を過度に美化することを避けなければならない。【第八章】で見た、北原淳の言う「忍従や悲しみ」を想起するように(32)、豊かな〈共同〉が存在するということは、それだけ〈共同〉の“負担”が大きいということでもある。
 事実そうした〈生活世界〉に生きる人々は、〈共同〉によって互いに支え合いつつも、同時にその〈共同〉の残酷さやしがらみのなかから常に逃れたいと願っていた。人々が何より忌み嫌い、同時に恐れていたのは、そうした隣人たちの目線がもたらす、あの“世間”と呼ばれる何ものかでもあったからである(33)。

 したがって「第一期」における〈生活世界〉の実態は、およそ次のようにまとめることができるだろう。
 まず近代国家日本の成立は、確かに「環境哲学」の視座に立てば、国民国家、市場経済、化石燃料の導入、そして科学技術がもたらす大量の人工物による「人為的生態系」の肥大化として、つまり人類史における「第二の特異点」に相当すると言えるだろう。
 しかしそうした萌芽的な〈社会的装置〉は、このときにはまだ限定的な影響力しか持ちえなかった。大多数の人々の眼前に広がっていたのは、分厚い層をなして圧倒的に迫る〈生活世界〉の実体であって、「〈生〉の分析」から言えば、そこには毒々しいほどの実感を伴った〈生〉があり、「〈関係性〉の分析」から言えば、そこには生々しいほどの〈共同〉が埋め込まれていた。
 〈共同〉のための人間的基盤となったのは、諸々の制度や慣習、生活組織だけではない。そこには〈共同〉しなければ生きていけない歴然とした「事実」があり、人々は〈共同〉によって〈生〉をつないでいくことの「意味」を良く理解していた。そして人々は〈共同〉のための「技能」を幼少の頃より鍛錬し、円滑な〈共同〉を実現するための諸々の作法もまた心得ていたと言えるだろう。
 だからこそ、たとえ“貧困”の渦中にあったとしても、彼らの〈生活世界〉はその持続性を担保することができたと言えるのである。


【第九章】(3)構造転換の“過渡期”と〈旅人〉の時代 へ進む


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(7)これは多少、誤解を招く表現かもしれない。江戸においては独自の形で経済が発達し、技術面においても、思想/文化面においても、非常に多くの蓄積が行われていた(田尻 2011)。新政府による改革が成功したのは、おそらくこうした分厚い層をなす江戸期の蓄積があったからであったと言えるからである。
(8)周知のように江戸期の日本は身分制社会であり、新しい国家秩序において人々を統合するための拠り所となったのは、古代から続く天皇制の伝統であった。実際、明治政府の出発点となる「王政復古の大号令」には、摂政、関白、将軍を廃し、政治の根本を「神武創業」に返すことが謳われており、「神武創業」とは、『日本書紀』において描かれた神武天皇――天照大神の子孫であるとともに初代天皇となったとされている――による建国の詔のことを指している。また、「広く会議を興し万機公論に決すべし」で知られる「五箇条の御誓文」は、明治天皇がその実現を天地神明に誓うという形式で発表されていた。以上の経緯については坂本(1998)を参照。もっとも、天皇制に基礎づけられた明治政府という枠組みそのものは、広い目で見れば、日本の“政治的伝統”に忠実に則ったものであったとも言える。なぜならこの国における政治権力は、平安期の藤原氏から鎌倉期以降の将軍家に至るまで、常にその正当性を天皇および天皇制によって基礎づけてきた伝統があるからである。過去にはしばしば天皇親政の時代も出現したが、それは全体としてみれば例外的なものである。むしろ天皇自身は直接政治に関与せず、祭祀を通じて国土と人民の平安を祈り、現実の政治は、天皇の権威のもとで然るべき者たちが取り仕切る。それがこの国の基本的な伝統であった。そうした骨肉化された伝統と、それを裏打ちするように、古代から一度も途切れることなく続いてきた天皇の存在、これこそが“政体”とは区別される、日本独特の“国体”と呼ばれる概念である。こうした国体概念については、佐々木(2002)を参照のこと。
(9)この時期、例えば憲法、民法、軍制、学制などが、主として仏国、独国、米国などの制度をモデルとして整備された。なかでも明治憲法(大日本帝国憲法)の成立は重要である。そのモデルとなったのは、君主の権限が強く、君主が国民に与えるという形式で発表された独国のプロシア憲法(1848年制定)――こうした形式の憲法は欽定憲法と呼ばれる――であった。明治憲法は、文字通り読めば、主権者である天皇が統治権、立法権、統帥権のすべてを掌握した強大な専制君主であるかのようにも見える。しかし現実においては、天皇はよほどの事態でなければ政治権力を行使することはなく、そこにはきわめて多くの不文律や、建前と本音の乖離、条文と運用の乖離が存在したと言われている(佐々木 2002)。建前としては、すべての権力は天皇が“総攬”する。しかし現実の政治は“輔弼”という形のもと、事実上その臣下が行うことになっている。前注で見たように、明治憲法の不文律にはこの国の政治的伝統が体現されていたのである。
(10)日清戦争(1894年)は、明治政府が最初に行った本格的な戦争であった。清国との間には1871年に日清修好条規というほぼ対等の条約が結ばれていたのだが、台湾の帰属などの領土問題が存在しており――冊封体制によって基礎づけられていた東アジアには、もともと国境という概念がなく、西洋の国際法に準拠する形で、一から国境を確定していかなければならなかった――この戦争の結果、清国は朝鮮の独立を認め、台湾および遼東半島を日本に割譲することになった(ただし遼東半島については「三国干渉」を通じて清国に返還された)。露国との領土問題は江戸期にまで遡るが、日露和親条約(1855年)、樺太/千島交換条約(1875年)を通じて国境はほぼ確定していた。日露で争われたのは朝鮮半島や満州に対する互いの影響力であって、日本はそれに勝利したことによって、同地域における権益および、南樺太、遼東半島先端部――日露戦争以前は露国の租借地となっていた地域で、後に“関東州”と呼ばれるようになる――を獲得した。日露戦争による勝利の意味はきわめて大きく、政府が心血を注いでいた不平等条約の改正問題にも影響を与えたとされている。その後1914年に第一次大戦が勃発すると、日本は日英同盟――対露国を想定した英国との同盟(1902年に締結)――を根拠に参戦し、独国の租借地であった青島を占領した。そして最終的には戦勝国として国際連盟の常任理事国に就任する。それは大正/昭和初期の日本人にとって、名実ともに西洋列強と対等であることが承認されるという意味において、幕末以来の悲願が成就した瞬間でもあっただろう。以上の詳細については、佐々木(2002)、坂本(1998)、御厨(2001)を参照。
(11) 【序論:注3】でも触れたが、第一次大戦にはもうひとつの世界史的な意味があった。それは、この戦争によって大量破壊兵器が登場し、今後戦争が勃発すれば、人類は桁外れの破壊と殺戮に直面するということを人々が予感せざるをえなくなったこと、そこから“不戦条約”、“国際平和機構の設立”、“民族自決”といった理念を含んだ新たな時代のパラダイムが成立してきたからである。とはいえその新しい枠組みは、きわめて不完全なものであった。例えば不戦条約(1928年)によって自衛に基づかない戦争は禁止されたが、国際連盟は米国の不参加によって有名無実となり、紛争解決のための具体的な手段も欠いていた。また民族自決は旧墺国、旧土国領に限定的に適用され、植民地支配の大半は存続していたからである。詳しくは木村/柴/長沼(1997)を参照。
(12)中国大陸では、日清戦争後に清国が弱体化し、西洋諸国による分割が進んでいた。清朝滅亡後には孫文が南京に中華民国を建国(1912年)するが、現実は各地に軍閥が割拠するきわめて不安定な体制であった。第一次大戦によって列強の影響力が衰えると、日本は国内問題の矛盾のはけ口として積極的に大陸進出を試みるようになる。例えば日本が悪名高い「二一か条要求」(1915年)を行ったのは、北方軍閥の袁世凱政府に対してであった。第一次大戦が終結すると、その戦後処理の過程で、九ヵ国条約(1922年)および不戦条約が結ばれ、権益拡大のための露骨な戦争は禁止されることになる。中国国内では蒋介石の北伐によってようやく統一がなされるが(1928年)、今度は毛沢東率いる中国共産党(1921年に結党)との間で内戦が繰り返されることになった。そうした間も日本は繰り返し大陸への介入を行ったが――それは国際法上の戦争ではない“事件”や“事変”という形で処理された――世界恐慌によって国内経済の矛盾が極地に達すると、よりいっそう大陸進出へと傾斜していくことになる(世界恐慌の影響は凄まじく、物価は2年間で3割近く下落し、名目国民総生産は前年比で10%あまり縮小し、とりわけ農村部では自作農の半分以上、小作農の3/4が赤字農家に陥ったとされている)。とりわけ満州は、日露戦争での多くの犠牲を払って獲得した「日本の生命線」とも呼ばれ、その権益は新たな犠牲を払ってでも手放してはならないと考えられていた。満州国の成立(1932年)、およびそれを不承認とする国際連盟からの脱退(1933年)は、こうした事態の延長線上にあったのである。詳しくは有馬(1999)、北岡(1999)を参照。
(13)1937年、日本は国民党と共産党の合作による中国との間で全面戦争となった。そしてその2年後の1939年には、欧州において第二次大戦が勃発することになる。この時点においては、先の“新世界秩序”の理念が戦後も生き延びるのか、それとも文字通り単なる理念として歴史の狭間に葬られてしまうのか、誰にも予測することはできなかっただろう。日米関係について言えば、日本が独国と同盟を締結したことがおそらく決定的な意味を持った。たとえ米国側が真珠湾攻撃自体を事前に把握していなかったとしても、「ハル・ノート」は事実上の最後通告を意味しており、日本との全面戦争は覚悟していたと考えるのが自然だろう。なお五百旗頭(2001)からは、日米開戦がさまざまな立場の人間による複合的な状況判断の積み重ねによって引き起こされたことが読み取れる。「バスに乗り遅れるな」とばかりに破竹の勢いの枢軸国と同盟を結んだこと以外にも、例えば「帝国国策遂行要領」に「10月上旬」という交渉期限を設けてしまったこと、9月6日の御前会議における昭和天皇からの批判を黙殺したこと、11月1日の連絡会議を機に東郷茂徳が外相の辞任を思いとどまったことなどは、いずれも開戦に至る重要な契機となったとされている。とはいえそれを理解できるのは、われわれがあくまで一連の戦争の結末を知る人間だからに他ならない。
(14)1873年(明治6年)に設立された明六社は、日本最初の学術団体とも呼ばれ、機関誌『明六雑誌』においては、福沢諭吉をはじめ、加藤弘之、西周、森有礼といった多種多様な知識人が集い、さまざまな論争が繰り広げられた。他にも中江兆民や植木枝盛は、藩閥政治の時代に人権思想や議会政治、普通選挙の必要性を説き、後の政治改革に大きく寄与したことで知られている。この時代の知識人こそ、外国語文献の翻訳に心血を注ぎ――その過程で誕生したのが、【序論:注5】でも触れた数多くの翻訳語であった――現在へと続く翻訳文化の基盤を築きあげた人々であった。
(15)例えば福沢諭吉は、「文明国」である西洋に対してわれわれアジアの国々は未だに「半文明国」であること(福沢/松沢 1995)、そして「一国独立」を達成し、諸外国と渡り合うためには、ひとりひとりの国民が他人に依りすがらぬ「一身独立」の気風を身につけなければならないことを説いた(福沢 1942)。こうした「文明国」としての日本の建設という問題意識は、おそらく伊藤博文や山県有朋といった政府筋の人々をも含めて広く共有されたものだっただろう。実際、幕末に結ばれた不平等条約の改正は明治日本の悲願であり、それが達成されるまでには、忍耐強い交渉と日清/日露戦争での勝利、そして半世紀あまりの歳月が必要とされた。その詳しい過程については、坂本(1998)、御厨(2001)を参照。
(16)例えば日本の近代文学は、写実主義や自然主義、そしてその後の夏目漱石や森鴎外、永井荷風、志賀直哉、芥川龍之介らに至るまで、まさに西洋文学との対峙によって展開されてきた側面がある(鈴木 2013)。絵画の分野においても、高橋由一や浅井忠、黒田清輝らによって洋画が展開されるなか、狩野芳崖や横山大観などが日本画を新たな形で再生させていった(辻監修 2003)。また哲学/思想の分野においては、ヘーゲルの絶対精神と禅仏教に関わる「純粋経験」の関係を論じた西田幾多郎(西田 1979)や、M・ハイデガー(M. Heidegger)を意識しつつ人間存在の空間性や風土性について論じた和辻哲郎(和辻 1979)、西洋の民族学、神話学から日本民俗学の基盤を築いた柳田国男(柳田 1976)、文献学的手法を導入して『古事記』/『日本書紀』を研究した津田左右吉(津田 2018)といった人々がいた。日本の伝統的な美意識の再発見という文脈においては、岡倉天心の『茶の本』(The book of tea, 1906)――茶道を通じた日本的美意識を西洋人に紹介するために英文で書かれた――や九鬼周造の『「いき」の構造』(1930)などもあげることができるだろう(岡倉 2012、九鬼 2009)。
(17)未だ啓蒙と進歩が疑われなかった時代、最も文化的であることを自認していたはずの西洋諸国が自ら第一次大戦を招いてしまったことは、西洋世界自身に深刻な自信喪失をもたらした。そしてそこに世界恐慌(【注12】を参照)が加わると、少なくない人々が19世紀的な社会制度には未来はないと考えるようになっていった。それに代わって新時代の原理であると考えられたのが、個人を超えた価値や一党独裁、国有化や計画経済といった理念である。共産主義は、まさにこうした時代認識を体現したひとつの勢力であり、ソ連の建国はこうした認識を一般化することに大きく貢献した。実は独国のナチスや伊国のファシスト党も、こうした時代の転換を意識しつつ、共産主義とは異なる形で社会主義的改革を実現する勢力として誕生したものだった。当時の欧州には、今日から見てファシスト政権とも呼べる体制が、独伊以外にも幅広く出現していたのである。詳しくは木村/柴/長沼(1997)、油井/古田(1998)を参照。
(18)こうした議論の系譜は、例えば大川周明の『復興亜細亜の諸問題』(1922)――第一次大戦後の世界を大航海時代以来続く西洋的な覇権の動揺と捉えたうえで、日本はアジアを束ね、欧州の革命勢力やイスラム諸国との連帯のもと、“白人支配”を終わらせる使命があると説いた(大川 2016)――や石原莞爾の『最終戦争論』(1940)――兵器の発達と世界情勢の流れは、今後必然的に日本を盟主とした東亜連盟と、米国を盟主とした米州連盟との最終戦争へと至ること、また日本はその備えとして東亜連盟の結成と軍事力の拡大が急務であると説いた(石原 1993)――などに見ることができる。なお『世界史的立場と日本』と『近代の超克』は、1942年という太平洋戦争の開戦まもなく行われた二つの座談会をまとめたものであったが――前者は西田幾多郎および田辺元に影響を受けた高坂正顕、高山岩男、西谷啓治、鈴木成高ら京都帝国大学の教授陣が『中央公論』に発表したもの(高坂/西谷/高山ほか 1943)、後者は、文芸評論家の亀井勝一郎や小林秀雄らに加えて、前述の西谷と鈴木が参加する形で『文芸界』に掲載された(河上/竹内他 1979)――ここでも焦点となっていたのは、西洋が主導してきた近代の閉塞、およびそうした時代認識のもとでの日本の立ち位置をめぐる問題であった。
(19)林房雄の『大東亜戦争肯定論』(1964)は、その書名からしばしば誤解を招くが、その真意とは、8月15日の敗戦を、日本人が幕末に西洋の脅威に直面して以来、100年かけて西洋世界に挑み続けてきたひとつの長い戦争が終結した日として理解すべきであるというものである。ここでの「肯定」に込められているのは、その「100年戦争」がそもそも勝ち目のない戦いであったこと、しかしそれでも戦わなければならないものであったこと、そして日本は事実そこで戦い、敗れたのだということを、まずはわれわれ自身が正面から受け止める必要があるという主張だろう(林 2006)。筆者はこの時代、そうした「戦い」が“文化の次元”においても存在していたと考えている。それはわれわれに連なる人々が、まさにおのれの生き方、あり方をめぐる戦いとして西洋世界に対峙し、そして敗れたという事実に他ならない。
(20)後述するように、大正/昭和初期の日本においては、われわれが高度経済成長期以降のものだと思いがちな現代都市の姿がすでに出現していた。地上の鉄道網はもとより、最初の地下鉄がすでに1927年に浅草―上野間で開通している。また1930年代には白木屋、高島屋、三越などの代表的な百貨店が開業し、そこでは冷暖房、マネキン、エスカレーターさえ見ることができたと言われている。当時の人々の生活の様子については北岡(1999)および湯沢/中原/奥田ほか(2006)を参照。
(21)他にも当時の風俗として、一円で乗車できるために「円タク」と呼ばれたタクシー、洋服と断髪姿で颯爽と街を闊歩する「モガ(モダンガール)」などは有名だろう。北岡(1999)、湯沢/中原/奥田ほか(2006)を参照。
(22)例えば、第一高等学校(旧制)の学生だった藤村操が「万有真相は唯だ一言にして悉す。曰く『不可解』。我この恨を懐いて煩悶終に死を決するに至る」(佐藤編 2005:241)との遺書を残して入水自殺を遂げたことは、当時の青年たちに少なからぬ影響を与えた(有馬 1999)。また文学作品においては、自己とは何か、他者との出会いとは何かといった主題を細やかに描いた倉田百三の『愛と認識の出発』(1921)が、当時ベストセラーになっていた(倉田 2008)。
(23)「伝統的共同体」については【第四章:第三節】を、「〈生〉の三契機」については【第五章:第二節】を参照。
(24)1890年に最初の総選挙が行われた際、選挙権は「25歳以上の男子でかつ15円以上の納税者」に限られており、それは当時の全人口のうちわずか1%程度に過ぎなかった(坂本 1998)。その後、納税額にかかわらず男子全員に選挙権が与えられるのは1925年になってから、女性の選挙権に至っては戦後になってからである。
(25))耕地を集積した大土地所有者たちの多くは、自らは農業に従事せず、土地を小農経営者に貸付けて生活する寄生地主と化していた(三和 2002)。こうした地主の存在は、財閥と並んで人々から多くの憎しみを買うことになった。
(26)「第一期」の日本社会においては、生活にあえぐ人々が度々暴動を引き起こし、それが社会問題となっていた。代表的なものとしては、1876年の地租改正時の農民一揆や1918年の米騒動などがよく知られているが、後者においては、米価の高騰に困窮した人々が炭鉱労働者などをも巻き込んで全国規模の暴動となり、軍隊までが出動する事態となったと言われている。詳しくは坂本(1998)、有馬(1999)を参照。
(27)当時、労働組合は非合法であり、社会主義を掲げる政治運動は弾圧の対象となった。なかでも天皇制を否定し、徹底的な体制変革を求める共産主義者は厳しく弾圧されていた。実際、幸徳秋水――彼はマルクスの『共産党宣言』(Manifest der Kommunistischen Partei, 1848)をいち早く翻訳したことでも知られる――を含む12名が明治天皇の暗殺を企てたとして死刑に処せられた大逆事件(1910年)は、真相としては不明な点も残されるが、過激化する社会運動が国体の中枢に位置づけられている天皇に対して危害を加える可能性があることを示していた(佐々木 2002)。1928年には、戦前の「悪法」の代名詞とも言える治安維持法が成立することになるが、その眼目は「国体を変革し又は私有財産制度を否認することを目的」とした活動の取り締まりであるとされており(有馬 1999)、主たる標的は共産主義運動であったことが理解できる。
(28)世界恐慌後の1930年代には、「三月事件」(1931年)、「十月事件」(1931年)、「血盟団事件」(1932年)、「五・一五事件」(1932年)、「二・二六事件」(1936年)など、財界や政府の要人を標的としたテロやクーデター未遂事件が相次いだ。その思想的なさきがけとしてよく知られているのは、北一輝の『日本改造法案大綱』(1919)である。その内容は、天皇大権の発動により3年間憲法を停止し、その間に議会を解散、私有財産の制限や華族制度の廃止などを断行すべしとする驚くべきものであり、一面においては、天皇制のもとでの社会主義国家の樹立を謳ったものとしても読めるものであった(北 2014)。しかしそこから多くの若い軍人たちが読み取ったのは、天皇の意思を遮り、私腹を肥やす政治家や官吏、財閥こそが諸悪の元凶であること、そしてそうした“奸悪”を取り除き、天皇親政の道を開く「昭和維新」こそが急務であるとのメッセージであった。「二・二六事件」は、まさにそうした運動の頂点とも言えるものであり、そこでは大尉/少尉クラスの軍人たちが周到な準備のもと、総勢1400名余りの部隊を率いて首相官邸などを襲撃し、永田町一帯を占拠した。その間、斎藤実(内大臣)、高橋是清(大蔵大臣)、渡辺錠太郎(陸軍教育総監)らが殺害され、鈴木貫太郎(侍従長)が重傷を負った他、多数の死傷者を出すことになった。天皇親政を夢見る青年将校らに対して、知らせを受けた昭和天皇は激昂し、皮肉にも自ら近衛師団を率いて「反乱軍」の鎮圧にあたると述べたという。詳しくは北岡(1999)、および筒井(2006)も参照。
(29)例えば江戸期においては、享保飢饉(1730年代)、天明飢饉(1780年代)、天保飢饉(1830年代)といったように、繰り返し飢饉が訪れ、その度に農村部では地獄絵図が繰り広げられた。例えば天明期、1783年の凶作においては、仙台藩や津軽藩に数十万の死者を出す大惨事となり、死者数があまりに多いために埋葬が間に合わず、そのうち人々は遺体を片づけることも止め、鳥獣に食われるがままになっていたと伝えられている(鬼頭 2002)。
(30)【第五章:第四節】【第四章:第四節】、鳥越(1993)を参照。
(31)戦時色が濃厚となった1940年、政府は「部落会町内会整備要綱」をまとめ、都市部には町内会、農村部には部落会を組織するように通達した。その目的が「国民精神の総動員」にあったこと、またそれらが事実大政翼賛会の下部組織として配給や訓練を中心的に担ったことから、しばしば町内会や部落会は、行政権力が国民を動員するための末端組織であったとの認識が定着してきた。しかしそうした法令以前から、地域社会には常に人々が〈共同〉を行うための自治組織が存在してきた。またそうした自治組織が行政の末端に位置づけられたからといって、そこに住民側の主体性が一切なかったと考えるのは誤りであろう。江戸期においても、名主(庄屋)は領民と領主との間を取りもたなければならなかった。それと同じように、ここには依然として双方向の力が働いていたのである。なお倉沢進と秋元律郎は、こうした実態に即した地域的な共同生活単位のことを「町内」、そこに貫かれている原理を「町内原理」と呼び、それらを法令的な意味での町内会とは区別しながら論じている(倉沢/秋元編 1990)。
(32)ここでも再掲しておこう。「共同体の代表とされる村落社会には、東西の都市知識人が夢想してきたように、ただ美しい自然と調和的な人間関係だけが残されているのではない。それらは端的にいって大きなコスト、犠牲のもとに成り立ってきた。……このしがらみと無償のコストにささえられて、「むら」の一見すると美しい自然と人間関係は保たれてきた。入会山の美しい自然も、共同労働の無償の人手が加わった結果だった。……ましてや素朴な人間関係の維持については、なおさらである。はた目には美しく映る人間関係の維持は、自然環境の維持以上に、「家」の維持を骨格にした膨大な社会的コストを要し、人の忍従と悲しみの上に成り立ってきた面がある」(北原 1996:6-8、傍点は筆者による)。
(33))阿部謹也は“世間”について、「個人個人を結ぶ関係の環であり、会則や定款はないが、個人個人を強固な絆で結びつけているもの」(阿部 1995:16)と定義し、それが西洋的概念としての社会(society)――独立した個人の集合体として想念される――とは対照的に、われわれ日本人の社会観としてきわめて一般的なものだとしている。実際われわれが“世間”を想起するとき、そこでは自身と自身を取り巻く人間関係の網の目が漠然と想起されている。したがってそれは、客観的実体として対象化されうる国家や社会とは異なり、不定形で漠然とした、曖昧なものだと言えるだろう。しかしそこに理屈を越えたある種の強制力が働いているのは確かであって、人々は常にそうした世間の目を気にしながら、世間から排除されることを恐れて生きてきた側面があるのである。なおこうした世間の概念は、とりわけ〈自立した個人〉の思想からは、後述する「日本的集団主義」と同様、封建的な旧習、日本人の精神的未熟さの表れとして批判の対象となってきた。本書の立場からすれば、“世間”とは、〈共同〉の基盤がもたらす副作用や負担の形を別の側面から捉えたものであると言える。いつの時代も人々は世間を恐れ、同時にそれを忌み嫌ってきたが、その強制力は相互扶助を導くためのある種の結束の表れでもあったのである。