用語解説
「美的アノミー」 【びてきあのみー】
- 「したがって今日のわれわれが、無数の「美的なるもの」に取り囲まれていながら、「美そのもの」においてはしばしば恐ろしく空虚に見えるとするなら、それはこうした「鑑賞としての美」の寡占状態と、「アート」の異常な氾濫によって、われわれがある種の「美的アノミー」へと陥っているからだと言えるだろう。」 (下巻 150)
美の現実をめぐって現代社会が直面している状況を指す概念で、直接的には、われわれが無数の「美的なるもの」に取り囲まれていながら、その実「美そのもの」においてはしばしば恐ろしく空虚に見える事態のこと。
「美的アノミー」の直接的な背景にあるのは、「鑑賞としての美」を中心とした西洋美学の歴史の中で、既成概念の破壊それ自体を目的とする「現代美術」(contemporary art)が登場したこと、そしてここで既成概念の破壊が「美的なるもの」それ自体に向かったためである。
ここでは作品を作品ならしめているのは、知的に理解されるコンセプトであると考えられ、コンセプトさえ成立するなら、たとえ醜悪なものや残虐なものであっても潜在的には芸術となる。
これは「鑑賞としての美」の行きつく結末であったと考えることもできるが、人間存在の〈美〉には、単なる鑑賞活動にとどまらず、対象を通じてそこに人間存在の「生き方、あり方」を感受していく「生き方としての美」という態度がある。
ここで問われているのはインパクトやコンセプトではなく、対象を通じて感受される人間存在の〈世界了解〉のありよう(「美意識」)であって、そこでは「美しく生きたい」、「誇り高く生きたい」、「誠実に生きたい」という人々の願いや、そのように生きられない人々の哀苦や残酷さこそが問題となる。
確かに死体を切り刻んでホルマリンに漬けようが、動物が飢死するまでを動画に収めようが、それは立派な「アート」かもしれない。だが「生き方としての美」に関わる「美意識」に照らせば、人はそうした行いが、あるいはそうした自身の生き方が、〈存在の連なり〉を前にして、はたして「美しい」ものだったのかと問うだろう。