用語解説
「無限の循環構造」(〈自立した個人〉をめぐる) 【むげんのじゅんかんこうぞう】
- 「そのためそこでは、「解放」さえ実現すれば、人々は自ずと「自立」するということになる。しかし現実には「解放」が進展しても、人々は必ずしもそうした理想的人間類型になることはない。それでも〈自立した個人〉の思想は、そうした現状を、あくまで「解放」の不徹底という形でしか認識することができない。その結果として、際限のない“自由”と“平等”の拡大、絶え間のない「解放」を求める「無限の循環構造」に陥ってしまうのである。」 (上巻 13)
伝統や権威、世間や権力といった外的なものに服従することなく、自ら思考し、自ら判断できる主体であるところの〈自立した個人〉を実現するにあたって、その想定されていたシナリオが、個人の自立を阻む外力からの際限のない解放を希求し続けること、またどれだけ解放を求めたところでそこで想定されていた人間類型が理念通りに出現することはないこと。
もともと〈自立した個人〉の思想には、シナリオとして以下の三つの条件が想定されていた。①自己判断/自己決定の障害となる社会的制約および強制力は取り除かれなければならないこと、②自己判断/自己決定を行う条件は平等に与えられなくてはならないこと、③自己判断/自己決定が他者の自由や社会(公共の福祉)との調和を体現したものとなるよう個人は成熟しなければならないこと、である。
ここでの「無限の循環構造」は、たとえどれだけ①と②を拡大させたところで、一向に③が実現しないこと、そして③が実現しない原因が①と②の不十分さに求められることで、①と②をより拡大させる手段として、個人の自立を阻むと想定された抑圧の除去や権力構造の解体が求められるものの、結局③が実現しないという形を取る。
この問題は、われわれが実際には〈社会的装置〉に依存することで成立する〈ユーザー〉として、すでにある種の〈自立した個人〉を達成している事実を無視することによって生じている(〈ユーザー〉としての「自由」と「平等」)。
日本の人文科学では、日本的集団主義や同調圧力の問題が過剰に糾弾されてきた経緯があり、現代人が不要な摩擦や接触が生じないよう相手に配慮した結果として互いの生に極力介入しなくなっており、自分の生に生じたあらゆる問題を自分一人で解決しなければならないと苦しんでいる姿が、まさしく〈自立した個人〉がこの地上に現実化したひとつの結末であることに気がつかない。
この「無限の循環構造」の根底にあるのは、現実の外部にあるべき人間(「本来の人間」)を想定し、その理念によって現実を否定し続ける〈無限の生〉の「世界観=人間観」の問題である。