【本文】



〈自己完結社会〉の成立(上)
上柿崇英著


〈自己完結社会〉の成立(下)
上柿崇英著

環境哲学と人間学の架橋(上柿崇英 
/尾関周二編)
環境哲学と人間学の架橋
上柿崇英/尾関周二編


研究会誌『現代人間学・
人間存在論研究』

   

『〈自己完結社会〉の成立』(上巻)
【第一章】「理念なき時代」における“時代性”


(1)「理念なき時代」の参照点としての「20世紀」


 われわれはいかなる時代を生きているのか。このように時代と人間に対して問いかけるのが、本章の課題である。そして本章ではこの問いに対して、われわれが生きているのは「理念なき時代」である、と答えることにしよう。議論を進めるうえで手がかりとなるのは、参照点となる「20世紀」という時代の概念である。もちろんそれは単なる100年の形式的な時代区分を指したものではない。ここで問題にしているのは、特定の一時代を鳥瞰した際、そこに何らかの原理、あるいは特異な性格として浮かびあがってくる“時代性”のことだからである。

 実際「20世紀」は、明確な時代性をいくつも内在した時代であった(1)。大規模破壊戦争が産んだ社会実験としての国連、自由主義に正面から挑戦する社会主義陣営、そして人類の進歩を背負った未曽有の経済成長、それらはいずれも以前の時代とは一線を画していながら、同時に新たな時代を実感させるだけの明確な“理念”を含んでいたからである(2)。


(2)「20世紀」における“経済成長”の含意


  まずは“経済成長”について考えてみよう。経済成長とは、一般的な辞書によれば「国民経済規模の拡大、経済量の長期的な増大」を指すとされ、具体的には“国内総生産(GDP)”という経済指標――1年間にその国で生産された貨幣に換算可能な財やサービスの総量――の増大として理解されている(3)。
 経済成長が実現しているのか、またそれをいかにして達成するのかということは、今日においても国家運営の根幹に関わる課題、あるいは最も人々の関心を集める社会情勢のひとつとなっている。
 重要なことは、経済成長は今日、単なる経済指標以上の意味を備えているということである。それはわれわれにとって、いわば“社会的/歴史的概念”としても機能している。そして経済成長がそのような意味を持つようになったのが、まさしく「20世紀」だったのである。

 経済成長の概念が今日の形へと展開していく背景には、この時代に経済成長が備えていた、少なくとも三つの重要な側面について理解する必要がある。
 第一は、人間が消費可能な物質の量と規模の拡大に関わる側面であり、端的にはこの時代の経済成長こそが、生活世界の枠組みを劇的に改変し、現代的ライフスタイルを社会的に確立させたという事実である。
 われわれはしばしば忘れているが、今日自明の生活世界の様式は、主として二度の大戦後、世界規模で生じた未曽有の経済成長によってはじめて普及したものである(4)。それ以前の時代において、圧倒的に多数の人々は、多くの欠食児童、不衛生、高い乳幼児の死亡率、子女の身売りなどが象徴する貧困と同居するなかで生きていた。このとき経済成長は、かつてはごく限られた人々のみが享受していた近代的医療や、冷蔵庫、洗濯機、自動車といった消費財を普及させ、ますます多くの人々が憧れの都市型ライフスタイルへと移行することを可能にしたのである(5)。

 次に経済成長の第二の側面は、東西冷戦という当時の政治的文脈に関わっている。自由主義陣営にとって冷戦とは、より進歩した社会体制を自認する社会主義陣営からの挑戦を意味しており、それは同時に、体制変革と結びついた脅威を国内に抱え込むということを意味していた(6)。ここで行われた国家主導による社会保障の充実化や経済への計画的要素の導入、労働者を保護する諸々の制度の確立といった“資本主義の改良”は、こうした政治的事情を背景に展開されてきたものである(7)。このときから経済成長は、すべての人々に行き渡る福祉の向上を意味するようになった。
 つまりここでは経済成長こそが、失業や貧困を含む社会問題を着実に解決し、同時に既存の体制に対する正当性を保証する機能をも果たしていたのである。

 こうして「20世紀」において経済成長は、国家社会のあらゆる問題を前進させるために必要な、いわば“妙薬”としての位置を占めるようになっていった。そしてここから経済成長の第三の側面、すなわち“進歩”のイデオロギーの継承という側面が見えてくる。
 “進歩”とは、人間の未来は紆余曲折を経つつも、最終的には必ずより改善された、より発展した形へと展開していくという信念のことであり(8)、われわれはその信念が世界像として全面展開したものを、しばしば“発展進歩史観”と呼ぶ(9)。従来進歩の象徴を担ってきたのは、後述する“科学技術”であった。しかし核兵器へのトラウマや産業社会のもたらす公害が象徴するように、科学技術の両義性が認識されるようになったとき、進歩に新たな裏づけを保証したのがこの経済成長だったのである。
 「20世紀」においては、現代的ライフスタイルの普及に伴って、伝統的価値規範の解体や大衆消費社会における疎外感といった新たな問題が他にも登場し始めていた。それでも着実に経済が成長し、その恩恵が社会へ行き渡っていくという実感が、発展進歩していく世界というものへの人々の信頼を支え続けていたのである。

 こうして経済成長は社会的/歴史的概念となった。つまりこの、着実に経済成長が継続する限り、人間の福祉は着実に拡張されていき、目下の問題も自ずと解決していくという前提や世界観こそが、経済成長から見た「20世紀」の時代性だったのである。


(3)「20世紀」における“科学技術”の含意


 次は“科学技術”についてである。そのためにまず、われわれは「技術」と“科学技術”の違いについて確認することから始めたい。ここで区別される“技術”とは、それがもともと「てのわざ、すべ」を原義とするように、工芸などの職人的な手仕事の延長にある技術のことを指している(10)。
 この「技術」は、ホモ・サピエンスが成立する以前、およそわれわれの祖先が道具というものを使用し、それが社会的な意味を伴いながら伝承されはじめたとき以来存在してきた(11)。したがって人類史を通底する「技術」の蓄積という過程は、人間が知識や構造物、文化や制度を次世代へと継承していく過程と同様、人間存在の生物学的な本性に基づくものであると考えて間違いない。

 これに対して“科学技術”には、単なる「技術」には還元できない、特殊な方法と前提が含まれている。そもそもここでの“科学”とは、17世紀に成功したニュートン物理学をモデルとして誕生した、観察と実証に基づく普遍的な知識の体系としての科学のことを指している(12)。したがって科学技術の本質とは、職人的な勘に頼ることなく、客観的に定式化された“普遍的な原理”を起点とし、そこから自然の予測とコントロールを志向していくというところにあるのである(13)。

 先の経済成長と同じように、こうした科学技術もまた、「20世紀」の時代性を深く背負った概念であった。
 「20世紀」における科学技術の含意は、第一に、発展進歩史観に基づいた予測/コントロールの万能主義という形をとって現れる。前述したように、従来進歩のイデオロギーと深く結びついてきたのは科学技術であった。とりわけ化石燃料と結合した科学技術は、非再生エネルギーを無尽蔵に消費することによって、既存の自然環境にとらわれることなく、まったく新たな人工環境を純粋に創造することを可能にした(14)。
 つまりわれわれ人間は自然に対する予測とコントロールの幅をはますます拡大させており、人間の福祉もまた、それに伴ってますます向上していく――それが発展進歩史観と融合した科学技術がもたらす信念であった。そしてこうした志向性は、この時代、さらに“人間”や“社会”へと拡張されるようになる。つまり個別的か集団的かを問わず、人間の行動を分析的に掌握すると同時に、社会そのものを意図した形に設計できるとする“社会工学”という形で展開していくのである(15)。

  確かに前述のように、こうした志向性は科学技術のもたらす両義性によって、ある種の揺らぎを含むものとなっていた。しかし「20世紀」においては、科学技術の負の側面は常々利用や管理の手法の問題として理解され、それは総体としては依然として進歩を裏切らないと考えられた。
 とりわけそれを相殺したのは、この時代に科学技術が持っていたもうひとつの含意である。それは、経済成長の動力としての科学技術という側面である(16)。例えば科学技術は新たな産業を生み、それが経済を成長させる。経済成長は科学への新たな投資を導き、それが新たな原理の発見を経て、やがて新たな技術として結実する。
 つまり科学技術が進展する限り、人類の予測とコントロールの幅は拡張され、それに伴い経済が着実に成長し続ける――いわばこの“無限の拡大再生産”が成立しているように見えることが、科学技術から見た「20世紀」の時代性だったのである。


(4)「理念なき時代」の始まりと「20世紀」の“亡霊”


 以上のように「20世紀」を見ていくと、われわれはかつての時代に内在していた、経済成長と科学技術に深く結びつく、明確な時代の前提というものに気づかされる。そして実際、そうした時代の渦中においては、それは非常に確固とした真実味を帯びたものとして見えていたのである。
 例えばこうした認識に立つとき、先の東西冷戦のイデオロギー対立の本質さえも、われわれには違ったものとして見えてくる。なぜなら両陣営は、躊躇なく経済成長と科学技術の極大化を志向するという点、すなわち「20世紀」的前提を無自覚に肯定する点においては見事に一致していたからであり、その意味において両者の争いとは、どちらの体制がより十全にそれらの極大化を達成できるのか――つまりそれを市場経済と国家の組み合わせによって実現するのか、国家のみで可能と考えるのか――をめぐるものであったとも言えるからである(17)。

  確かに多くの人々は、今日こうした「20世紀」的な前提を素朴に受け入れることはできないだろう。それはわれわれが一面においては確実に、こうした時代の枠組みが解体した時代を生きているからである。
 かつてのような発展進歩を永続させることは不可能であるということ、それを人々が悟ったとき、理念としての「20世紀」は瓦解していった。そしてわれわれは、依然としてそれに代わる新たな理念、あるいは目指されるべき新たな社会モデルといったものを実感できずにいる。
 つまり「20世紀」の終焉が意味していたのは、あらゆる既存の対抗軸が死滅した不透明な時代、すなわち「理念なき時代」の始まりだったのである。

 実際、「理念なき時代」において語られてきたのは、新たな社会モデルの構想というよりも、むしろすでに瓦解した「20世紀」をいかにして延長させるのかというものであった。
 例えば21世紀になって、未来の社会モデルとして語られてきたのは、一方では“高度福祉社会”であり、他方では“新自由主義”であった。この二つのモデルはある面においては対立していたが、ここで焦点となっているのは、「より改良された資本主義(大きな政府)」か「古典的自由主義への新たな回帰(小さな政府)」かという違いであって、それは市場経済に対する国家の役割の増減という意味においては、本質的には「20世紀」において延々と繰り返されてきた問題の焼き直しでしかないことが分かる。
 それどころか、人間の福祉を実現しようとして、絶えず経済が成長し続けなければならないという点においては、両者は依然として「20世紀」の前提を共有しているとも言える(18)。われわれが生きているのは、その意味においては「20世紀」の“亡霊”が闊歩する時代でもあったのである。

 とはいえ「20世紀」の教訓を踏まえるならば、そこに新たな対抗軸がまったくなかったわけではないことも分かる。
 例えば「20世紀」を解体に導いたのは、一方では無限の経済成長は不可能であるということ、他方では完全な意味での予測とコントロールは不可能であるということであった。このうち前者の問題については、遡れば1972年の『成長の限界』(Limits to Growth)に行き着くことができるだろう(19)。
 確かに今日から見れば、未来予測という点で、同書が依拠するデータやモデルには誤りが含まれていた。しかしわれわれが100年、1000年、あるいはそれ以上という長期にわたって、この地球生態系の制限のもとで生きていくことを覚悟するのであれば、有限の世界において、何ものかが無限に成長することはありえないという同書の核心部分は、依然として有効であると考えることもできる(20)。

 『成長の限界』から続く問題提起は、今日では「定常状態」(steady-state)という形で説明される場合が多い。つまり人間の経済は、たとえ金融やサービスを含む多岐に渡るものであっても、それは究極的には地球生態系のサブシステムであること、したがって人間の経済で行われる消費と廃棄は、それが「生態系の生産力」と「生態系の浄化能力」を超えない範囲で行われるとき、はじめて持続可能となるという考え方である(21)。
 このことを踏まえると、無限の経済成長を前提とする「20世紀」の社会モデルは本質的に“持続不可能”なものであるということ、それどころか「自然のストック」である化石燃料を浪費する形で実現された「20世紀」の経済成長とは、実際には将来世代が得られたはずの「自然のフロー」を犠牲にすることで成り立つものであったということが改めて理解できる。

  これに対して後者の問題は、「20世紀」のさまざまな経験を経て、科学技術による予測とコントロールへの過度の信頼が、ときにいっそう危険な結果を招くという認識となって展開された。こうした議論はすでに80年代に環境問題への対応という文脈から「予防原則」(precautionary principle)という形で存在していたが(22)、とりわけ2000年代に入ると、それは予測/コントロールの精度を極限まで高める戦略よりも、自然の予測不可能な振る舞いを前提とし、むしろリスクに対する社会システムの“適応力”をいかに高めるのかという議論として展開された(23)。
 ここから読み取れるのは、世界を予測しコントロールするわれわれの能力自体は、ある面では今後も精巧になっていく余地があるものの、そもそも人類にとって完全な意味での予測やコントロールは不可能である以上、いかに魅力的な手段であったとしても、それが将来の進歩を前提としなければならないものである場合、それを選択するのは避けるべきだということである。


(5)「理念なき時代」における“科学技術”のもうひとつの含意


 こうした対抗軸を踏まえるのであれば、「21世紀」という新たな時代に相応しい理念とは、将来の技術的潜在力を前提して成果を先取りすることなく、またたとえ経済が成長しなくても、人間の福祉が着実に実現される社会ということになるのかもしれない(24)。
 しかし本書の目的は、こうした議論をさらに展開することによって、あるべき社会のモデルを検討していくことではなかった。われわれは確かに「理念なき時代」を生きているが、本書では、だからといってわれわれが再び新たな「理念的な時代」に向かうべきだとは考えない。後に明らかにしていくように、いまここにはない理想的な“あるべき何ものか”を想定し、その実現をやみくもに求めることこそが、ある面では「理念なき時代」の混乱をかえって深刻なものにしていると考えているからである(25)。

 本書がここで目を向けたいのは、むしろそうした「理念なき時代」に生きる“人間”の問題、そして現代人が直面している深刻な社会的現実の方である。実のところ「理念なき時代」の混乱は、社会モデルの次元をこえ、人間のあり方そのものをめぐる次元にまで及んでいる。「20世紀」の動揺は、かつて盤石だった人間への理解、そして人間に関する理想をめぐる諸概念をも解体させたからである。

 このことを理解するためには、われわれはまず「理念なき時代」における、科学技術の持つもうひとつの含意を読み取らなくてはならない。端的にいえば、われわれが人間自身を見失う一方で、そこには唯一科学技術だけが、着実に“人間の条件”を改変させている事実がある。かつてH・ヨナス(H. Jonas)は、70年代初頭の段階で、現代科学技術によって、もはや人間行為の本質は変わってしまったと提起した(26)。
 しかし今日われわれが体験しているのは、ヨナスの時代には想像することもできなかった、人間の存在様式の変容とも呼べる事態なのである。

 現代社会が直面している人間の変容、そのことを理解するための手がかりとなるのは、近年の“情報技術”、“ロボット/人工知能技術”、“生命操作技術”という三つの技術領域において、実際何が行われているのかということである(27)。
 まず“情報技術”であるが、われわれはすでにパソコン、インターネット、スマートフォンなどが社会的インフラと化した、文字通り“情報化(された)社会”を生きている(28)。デジタル技術は現実世界をビットに置き換え、それを仮想世界に再現することを可能にした。インターネットはそうした情報の集積を通じて、まさしく“情報世界”という名の並行世界を創造したとも言えるだろう。
 今後情報世界においては、高性能な記憶装置によって、われわれのありとあらゆる情報がビッグデータとして記録され、それは半永久的に蓄積されていくことになる。われわれはすでに情報世界への接続を常態化しているが、今後機器や端末はますます“身体化”され、情報世界はわれわれの生活世界に対して違和感なく溶解していくことになるだろう。
 吉田健彦の言葉を借りれば、情報技術の「環境化」である(29)。

 次に“ロボット/人工知能技術”であるが、ロボットは今後組み立て工場においてではなく、とりわけ家事や介護やサービス業の現場、そして戦場において活路が見いだされる(30)。高度な人工知能を伴い、自律的に行動するオートマトンは、人間が忌避する労働領域に続々と進出していくことになるだろう。
 当初は身体障碍者のケアを目的に開発されたブレイン・マシン・インターフェイスも、いまや念じることで、脳から直接機械の腕を操作することができる。人間の模倣、すなわちアンドロイドに至っては、すでに「不気味の谷」を突破し、いまや感情を読み取り、コミュニケーションを実践し、現実の人間の記録データを頼りに、人格の「復元」さえ可能であると言われている。

 最後に“生命操作技術”であるが、かつて問題視された「人間自身が対象となる技術」は、すでに相当程度、われわれの日常世界に具現化されている(31)。実際われわれは自らのゲノムを診断して健康管理に結びつけ、その技術は不妊治療にも活用される時代となった。生殖の管理と人工化は、これから先着実に進行する技術のひとつであろう。好み通りに遺伝子を改変したデザインドチルドレンやヒトクローンよりも前に、ともすれば同性婚カップルによる人工的な出生が実現するかもしれない。
 また、すでにきわめて広範囲で活用されている向精神薬は、広い意味では、ある種の“人体改造”と言えるかもしれない。そこには人間精神を蝕む原因の一端が社会にありながら、社会の側ではなく、人間の側を薬物によって適応させているわれわれの姿がある。
 “老い”のメカニズムの解明は、単なる延命の次元をこえて、近い将来「若返り」を可能とするようになるかもしれない。このときわれわれの社会には新しい「病」が誕生する。それはいまや治療の対象となった「病としての老い」である。


(6)変容する人間の存在様式


 以上の三つの技術領域であるが、われわれはここに、われわれが着実に向かっている社会の姿、そしてそこから立ち現れてくる新たな“人間の条件”の姿を確かに認めることができる。
 端的に述べれば、それは経済成長が継続する限りにおいて、個々の人間の行動が自ら「持続可能」であるように自己調整される高度な〈社会的装置〉の建設、そしてそれに伴って引き起こされる生の著しい“自己完結化”、および生をめぐる“脱身体化”という事態に他ならない。

 まず、現代科学技術の成果は、情報、機械、薬物といったものを媒介して、われわれの生活世界の隅々にわたって潜伏/浸透していくことになるだろう。それらは集積され、市場経済や官僚機構、インターネットと融合しながら、やがて巨大な「インフラ」となって生活世界を包摂していく。
 われわれはひとりひとり別々にこの高度な〈社会的装置〉に接続され、それがもたらすさまざまな財とサービスによって、人間生活は、より便利に、より快適に、より高速に、そしてより効率的に改変されていくように見えるだろう。
 ここで敢えて「持続可能」と述べたのは、〈社会的装置〉が高度になるにしたがい、個々の人間は、自らの行為の帰結を想像することさえ不要となっていく側面があるためである(32)。ここでは、人間はいわば〈社会的装置〉の〈ユーザー〉なのであって、システムの提供する“機能”を自由に利用しさえすればそれでいい(33)。あとはシステムの方が水面下でうまくやってくれる、というわけである。

 このとき人間の生には、ますます多くの「自由」が実現されていくように見える。なぜなら〈社会的装置〉が高度になるにしたがって、われわれにはあらゆる選択肢が潤沢に提供されるようになり、同時にわれわれ自身が、生を拘束するあらゆる制約から“解放”されていくためである。
 〈社会的装置〉はまず、われわれを貧困や欠乏から解放する。そして障碍や疾患を含む身体的制約からわれわれを解放し、さらには自由な意思を呪縛する伝統や慣習から、そして同調圧力となる地縁、血縁の隣人たちからわれわれを解放していく。その先にあるのは、同じ〈社会的装置〉に接続する〈ユーザー〉であるという一点のみを共通項とした、ある種の究極的な「平等」である。

 しかしここでわれわれは、こうした一面の背後にある、より本質的な生の変質について目を向けなければならない。
 最初に言えることは、われわれが今日、生の基盤を全面的に〈社会的装置〉に委ねているという事実、そしてこの〈社会的装置〉への高度な依存は、われわれがもはや、それなしには「生きる」ことを成立させられないほどに深いものであるということである。財とサービスだけではない。われわれが享受している自由と平等は、あくまで〈社会的装置〉によって実現された、〈ユーザー〉としての「自由」と「平等」なのである。
 ここで人間の生の条件は、〈社会的装置〉への、いわば「接続」の問題として収斂される。大部分の“解放”を終えたわれわれにとって、すでに生の基盤は〈社会的装置〉の外部には存在しない。例えて言うなら、われわれはひとりひとりが別々に〈社会的装置〉に“ぶら下がって”いるのであって、そこでは個人と〈社会的装置〉とを結ぶ「接続」が、文字通り“生命線”となるからである。
 しかし「接続」さえ確保することができれば、われわれはここで、包容な〈社会的装置〉の受益者となることが約束されている。だからこそ現代人は、「接続」のために――つまり貨幣を得る手段というものに対して――脅迫的なまでに懸命となる。そして「接続」を果たした大部分の人間は、ここで〈ユーザー〉として与えられ、ますます拡大していく「自由」と「平等」を、むしろ喜びをもって受け入れるのである。

 しかしわれわれが真に議論すべきことは、この先にある問題である。例えばこうした「ぶら下がり社会」においては、「接続」の問題さえ解決できれば、人間は事実上、他者との関係性を一切遮断してもなお、生の成立が可能となってしまう(34)。それは言ってみれば、人間が自らの生を、〈社会的装置〉との間で“自己完結”できるということである。
 われわれはこの事実が持つ存在論的局面、そしてこうした社会的前提がもたらす心理的な作用に注視する必要がある。というのも「生きる」ことに「自己完結」した人間同士は、互いに関係性を取り結ぶことにも、特定の関係性を維持することにも、何ら特別な意味を見いだせなくなっていくからである。
 集団生活を基盤とし、互いの協力によって生を実現してきた人間は、ここに至ってはじめて、究極的には“他者”の存在が不要となるかのような世界を作りあげたのである(35)。そこではたとえ、個々の人間が互いに信頼できる関係性を望んでいても、互いが互いを必要としていない事実、また互いが互いである必要すらないという事実が、互いを構造的に引き離していく。
 かつて増田敬祐はこのことを「共同の動機の不在」と表現したが(36)、われわれが生きているのは、こうした関係性を維持/構築していく動機も必然性も働かない社会、〈社会的装置〉への信頼とは裏腹に、互いの互いへの“不信”と“諦観”が蔓延する社会であるということである。

 さらにわれわれが注意すべきことは、ここで一連の「解放」に伴い、人間の“身体”もまた、着実に意味を持たなくなっていくという事実である。絶え間ない人体改造と肥大化するインフラは、身体という“有限性”を生の前提からますます取り除き、その分われわれの「自由」と「平等」は着実に拡大する。
 しかしこのことが真に意味するのは、われわれが有限な存在であるからこそ成立していた、諸々の人間的な概念の崩壊である。例えば男性と女性、若さと老い、子孫を生み育てるなど、われわれにとって「生きる」ことの根幹を成してきた諸概念は、ここで意味を失っていくのである。
 こうして「他者とともに生きる」ことから「解放」されたわれわれは、いまや身体をも脱ぎ捨てて、無限の存在となるだろう。そして人間が無限の彼方へと解き放たれるとき、われわれは代わりに“人生の概念”というものを失うのである。


(7)現代において見られる矛盾の兆候――〈関係性の病理〉と〈生の混乱〉


 以上のように現代社会は、いまなお着実にこうした〈生の自己完結化〉〈生の脱身体化〉という方向性へと向かって進んでいる。確かにこのことは万人に実感できるものではないかもしれない。しかし存在様式の急速な変容に伴って、人間の生にはさまざまな矛盾が現れ、実際そうした矛盾の兆候は、われわれが体験している日常世界のなかに、すでに相当程度見ることができるのである。

 まず〈生の自己完結化〉がもたらす矛盾の兆候は、〈関係性の病理〉という形となって現れる。それを象徴するのは、今日われわれが、とりわけ対人関係やコミュニケーションにおいて抱えている多大な困難である。例えば公共空間においては、われわれは日々無数の他者と物理的に接触するにもかかわらず、そこではますます人格的な関係性は成立しなくなっていく。
 壁を隔てた隣人は、予測不可能な存在となり、生活圏への潜在的な脅威としてのみ認識される。知人や友人といえども、人が集うためには“理由”が必要となり、リスクを伴う物理的な接触、内面を表出する交流は最小限にとどめられるようになる。たとえそれが家族であったとしても、そこでは負担を分け合う代わりに、“互いに迷惑をかけない”という選択がますます拡大していくことになるだろう(37)。
 もっともこうした関係性の「拡散」への反動として、親密となった特定の間柄においては、まったく逆に、しばしば極端な同一性が要求される。関係性に確信を持てない人々は、絆を絶えず確認し続けなければならず、その不安や恐れの感情が、ここでは他者への拘束として表現されてしまうからである(38)。

 おそらく多くの人々は、こうした関係性を本心では決して望んでいない。人間はその本性として、“意味のある関係性”のなかで生きたいと願う存在だからである。
 関係性自体が成立していない状態、自らの都合で相手を意のままに管理/コントロールできる状態では“意味のある関係性”は成立しない。互いに“意のままにならない他者”として対峙しながらも、そこで信頼関係を構築しえたときにのみ、人間は真に社会的に満たされることが可能となるのである(39)。
 しかし〈生の自己完結化〉が進行し、社会から関係性の意味が失われ、われわれ自身も互いに取り換えのきく存在となるなかで、人間同士が向き合うための敷居は、かつてないほどに高いものとなっている。しかも互いに傷つけず、傷つかずの距離を取りながら、その場を乗り切る技法のみに頼ってきた現代人は、いざ本当の意味で誰かと向き合うことに迫られてはじめて、取り返しのつかない失敗を余儀なくされるのである(40)。

 そしておそらく社会の“情報化”は、明らかにこうした事態を加速させる一因となった(41)。
 例えば情報機器を通じた緩やかな結合の常態化は、生身の関係性にかえっていっそうの“理由”を要求する。情報化されたコミュニケーションは、えてして多くの誤解を生みだし、それが互いの不信感を生みだす温床となるだろう。こうしてコミュニケーションそのものが高リスク、高負担になるにしたがい、人間はますます他者と向き合っていく自信を喪失していくことになる。
それに引き換え〈社会的装置〉は、自らの都合に合わせて関係性を管理/コントロール可能な、対人関係を模倣した“道具”を次々に提供してくれる。家族となるペット、精密にプログラムされた情報世界のバーチャル人格、そしてここにいずれはアンドロイドが加わるだろう。
 関係性に疲弊した人々は、こうして他者と向き合うことを次第に諦めていく。そして“意のままになる関係性”に甘んじ、孤独に耐えることを自ら選択していくことになるのである。

 次に〈生の脱身体化〉がもたらす矛盾の兆候は、〈生の混乱〉という形となって現れる。それを象徴するのは、今日の歪んだ「自己実現」の概念とともに、生そのものへの向き合い方として、われわれがますます“意のままにならない生”を受け入れることが難しくなってきている現実である。
 まず「自己実現」とは、一般的に「自分のなかにひそむ可能性を自分で見つけ、十分に発揮していくこと」とされ、それは確かにわれわれの生において価値あるものとされている(42)。しかしそれが歪んでいるのは、現代社会における「自己実現」が、あたかもその成否によって人生の価値それ自体が決定づけられるかのような異常な位置を占めているためである(43)。
 「自己実現」を至上とする人生観においては、生において直面するあらゆる選択は、「自己実現」との整合性に基づいて判断されなければならない。何を選択し、また何を犠牲とするのか、誰と関係性を結び、また誰と疎遠になるのか――あるいは結婚や子孫を産み育てることでさえも――そこでは“自己を実現する”という文脈のなかで理解されなければならないのである。

 こうした生への理解は、〈社会的装置〉が生みだす「自由」や「平等」ときわめて高い親和性を持っている。〈社会的装置〉が人間にもたらす不断の“解放”は、「自己実現」に立ち塞がる障害物を取り除き、その可能性をますます拡大させていくように見えるからである。
 しかし何もかもが実現されなければならない建前のなかで、人間は決して意のままにならない生の現実に直面してむしろ混乱する(44)。管理/コントロールできない他者、理想とは異なる自らの身体や社会的地位、そして自身がいつかは衰えて死ぬということ、それらは無限の可能性を持つと教えられてきた自己の偶像からすれば、あまりに理不尽なものでしかないからである。

 確かに〈生の脱身体化〉は、われわれをますます“無限の生”へと解き放ち、こうした不整合は次第に解消されていくと言えるかもしれない。しかしあらゆることが「意のままになる」世界というものを、はたして人々は本当に望んでいるのだろうか。
 われわれが忘れているのは、生とは本来さまざまな制約のうえに成立するものであり、それゆえ人間は、より良き生き方を目指すということに「生きる」喜びと充実とを見いだしてきたという事実である。
 それは確かに「意のままにならない生」であるかもしれない。しかし互いの生が“有限”であるからこそ、人間の世界には役割というものが生まれる。そして他者とともに生を実現していく根拠もまた、ここから生まれてくるのである。

 したがってここにある根源的な矛盾とは、そもそも“無限の生”においては、人間は真の意味での喜びも充実も見いだすことができないにもかかわらず、われわれがそれを――ある種脅迫的なまでに――他者や社会から切り離された「ありのままの私」のなかから導出できると信じているところにある。
 「生きる」ことに混乱したわれわれは、究極の「平等」が実現した世界において、こうして絶えず「本当の自分」から、実現すべき“個性”を生産し続けなければならない。しかしわれわれが「自己実現」に邁進すればするほど、生はますます意味を失い、人生は色あせた苦痛に満ちたものになるのである。


(8)“人間の未来”と二つのシナリオ――「火星への移住」が可能になるとき


 さて、本章を終えるにあたって、ここで最後に考えてみたいのは、こうした〈生の自己完結化〉と〈生の脱身体化〉が進展する世界において、これからわれわれを待ち受けている“人間の未来”が、いかなるものになるのかということである。

 まず“第一のシナリオ”として言えるのは、意外にもこうした人間社会の変容が頭打ちを迎え、いわば半強制的にその展開が終焉を迎えるというものである。ここにはそれなりの根拠があるだろう。なぜならこの先〈社会的装置〉が拡大していくためには、その条件として、未来永劫経済成長が継続していることが必要となるためである。
 前述のように、われわれが「地球の有限性」という条件のもとにある限り、「無限の経済成長は不可能である」という原則は成立する。つまりわれわれがこの惑星のもとで生きていかなければならないこと、それが結果的に人間の変容に対する歯止めになる可能性があるということである。
 しかし事態はそれでは終わらない。この“半強制的な終焉”がいかなる形で開始されるのか、それは誰にも予想できないからである。それゆえ何らかの引き金によって〈社会的装置〉が唐突に破綻を迎えるとき、われわれは――場合によっては荒廃した惑星のなかで――今度は等身大の人間の力のみによって再び社会を建設しなくてはならなくなる。
 生まれながらにして〈社会的装置〉に“ぶら下がって”生きてきた世代の人間が、そのときまでに本当にそうした能力を保持することができているのだろうか。ここから覗えるのは、未来世代が直面するであろう想像を絶する混乱である。

 しかしわれわれには“第二のシナリオ”というものも存在する。例えば万が一われわれが地球の外部にフロンティアを拡張することが可能となったとき、つまり人間というものが――“他者”や“身体”に続くさらなる「解放」として――自らを育んだ地球という有限性をも桎梏として取り除いてしまったとき、そこで何が起こるのかということである(45)。
 その先の未来においては、人間は「持続可能」に設計された人工的なカプセルに居住するようになり、エネルギーを食い潰しながら、カプセル外で生じる環境問題から完全に隔離されるようになるかもしれない。
 自己完結した人間を大量に搭載した社会は、いまや自然世界からも完全に自己完結し、文字通り人工世界として純化されることになるだろう。そして極限にまで〈生の自己完結化〉と〈生の脱身体化〉が進んだ人間は、遺伝子を改変し、機械を埋め込み、薬物を摂取し、「生きる」ことは完全に趣味趣向の問題となっているかもしれない。
 〈関係性の病理〉や〈生の混乱〉といったかつての悩みや葛藤も、そうした感情を克服できるよう人体改造すればそれでよい。そしてカプセルのなかで誰にも妨げられることなく、また誰を妨げるわけでもなく、ここで恒久的な「自己実現」に打ち込んでいることだろう。

 ここで人類は存続している――確かにそうである。しかしここで最終的に現れる何ものかは、現代に生きるわれわれにとって、はたして本当に“人間”と呼びうるものであり続けているのだろうか
 われわれが“人間の未来”として望むのは、おそらく「第一のシナリオ」でも「第二のシナリオ」でもないはずである。今日われわれが人間を問題にするということは、まさしくこうした人間の現実に対して、われわれが正面から対峙していくということに他ならないのである。



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(1)ここでは「20世紀」を、E・ホブズボーム(E. Hobsbawm)にならって、1914年に始まる二度の大戦から1991年のソビエト連邦の崩壊に至るまでの一時代として捉えたい(ホブズボーム 1996)。ホブズボームは「20世紀」を「極端な時代」(the age of extremes)と呼んだが、それはこの時代がそれ以前の時代に比して、破壊の規模においても、また繁栄の規模においても他に類を見ない、きわめて突出したものだったからである。なお、本章で概観する現代史の解釈については、【第九章】において、日本社会に焦点をあわせる形で改めて見ていくことになる。
(2)「20世紀」に関する研究は、前掲のホブズボーム(1996)以外にも数多く存在する。例えば佐伯(2015)は「20世紀」の時代性を「ニヒリズム」に見いだしたが、時代の本質をめぐっては、問題設定の仕方によってさまざまな整理の可能性があるだろう。
(3)『広辞苑』(2018)項目「経済成長」。GDP概念をめぐる詳しい経緯についてはコイル(2015)を参照。
(4)それは、わが国では1955年前後から1970年代前半までのいわゆる高度経済成長として知られているが、このときの経済成長は、同時に世界規模で生じたものであった(猪木/高橋 1999)。
(5)例えば有馬(1999)からは、戦間期の日本において、都市と農村の間にいかに大きな格差があったのかということを読み取れる。このとき都市部ではすでに、産業社会と結びついた大衆社会や、大量生産、大量消費、大量廃棄に伴う消費社会の萌芽が見られた。戦間期に最も現代的ライフスタイルが普及していたのは米国である(木村/柴/長沼 1997)。
(6)このとき東側陣営が掲げたのは、マルクス=レーニン主義に基づく“科学的社会主義”であったが、われわれはここで、この“科学的”という言葉が同時代に持っていた独特の響きというものに注意する必要がある(エンゲルス 1966)。
(7)このとき西側陣営が行った“改良”をめぐっては、木村/柴/長沼(1997)を参照。
(8)『広辞苑』(2018)によれば、「進歩」とは「物事が次第に発達すること。物事が次第に良い方、また望ましい方に進みゆくこと」とある。
(9)例えば世界史を“自由”の実現過程と見るG・W・F・ヘーゲル(G. W. F. Hegel)や、人類史を階級闘争の歴史と見なすマルク主義はその代表的なものである。こうした世界観は、とりわけ18世紀から19世紀の西洋世界においては広く共有されるものであった。注目したいのは、仏教、古代ギリシャ、初期キリスト教など、近代以前に普及していた多くの世界観は、未来を「終末」、すなわち徐々に「悪化」していくものと見なしており、近代的な世界観の前提とは正反対だったということである。こうした“逆転”が生じた背景には、例えばルネッサンス期の人間観、科学的手法の確立と進化論の登場、そしてとりわけ“自然に対する新たな原理の発見”が、実際に人間の自然に対する予測とコントロールの幅をますます拡大させていくように見えたことなどが複合的に関わっていると考えられる。こうした発展進歩史観の「世界観=人間観」については、【第十章:第二節】を参照のこと。
(10)『日本語源広辞典』(2012)。
(11)最古の石器は、約250万年前のオルドワン石器群が知られている。その後ホモ・サピエンスが現れるまで、世界には二足歩行で道具を使用するさまざまなホミニドが存在し、絶滅したことが明らかとなっている(ボイド/シルク 2011)。
(12)科学的手法の成立をめぐっては、例えば村上(1986)を参照。“科学”を普遍的な知識の体系と見なせるかどうかについては、K・ポパー(K. Popper)とT・クーン(T. Kuhn)の対立に見るようにさまざまな議論があるものの、“科学技術”の次元においては、“科学”は概ねそうした前提のもとで理解されている。
(13)こうした技術を巡る議論については、ハイデッガー(2013)や村田(2009)も参照のこと。
(14)化石燃料は、内燃機関といった動力、発電、そしてプラスチックを含む有機素材など、現代的な社会基盤のあらゆる局面を創造したのであり、それは現在もなお本質的には変わっていない。
(15)「20世紀」の一時代においては、ペダルを押すネズミの研究から出発して人間の行動を望みどおりにコントロールできるとする行動主義心理学が流行した(梅本/大山 1994)。“社会工学”は、社会が予測とコントロールの対象になりうると考える点で、すでにある種のイデオロギーを含んでいる。発展進歩史観と結びついた社会科学は多かれ少なかれこうした発想を含んでおり、国家社会主義や国家総動員体制はもとより、一定の手順に基づくことであらゆる国家は経済成長を実現できるとしたロストウ(1961)の経済成長発展段階説も、広い意味ではこうした志向性を共有していたと言えるだろう。
(16)この視点を深める契機はノーガード(2003)から得られた。
(17)ソ連が科学的社会主義を自認しながら大規模な環境破壊を引き起こしたように、社会主義陣営は、ある面では自由主義陣営以上に「20世紀」的前提を体現する存在であった。
(18)そもそも「20世紀」の福祉は、元来地域社会が備えていた福祉の機能をいったん解体させ、それを市場や国家が提供するより高水準のものへと組み替えることによって実現された。しかしながらそれは、市場や国家が全国民の福祉を賄い続けられるだけの経済成長があってはじめて約束されるものであって、それは同時に、経済成長が行き詰まると福祉の仕組みそのものが破綻するというものでもあった。ここから見えてくるのは、かつての共助の枠組みが欠落したまま、自己責任の名のもとに、市場や国家の限界を個人が直接背負わなければならなくなった現代人の姿であるだろう。
(19)メドウズ/メドウズ/ラーンダスほか(1972)。
(20)『成長の限界』で提起されたこととして、大きく四つの点があげられる。第一に、人口と工業の幾何級数的成長こそが根本的な問題であること、第二に、科学技術は重要だが幾何級数的な成長の前では無力であること、第三に、汚染や人口の問題は固有の時間差(遅れ)を伴っており、万全の対策を施したとしても当分は問題が進行すること、そして第四に、無限の成長ではなく「均衡状態」(equilibrium state)への移行の必要性である。
(21)この議論の代表的な論者はデイリー/ファーレイ(2014)であるが、他にもワケナゲル/リース(2004)は、それを応用して「エコロジカル・フットプリント」(ecological footprint)の概念を提唱した。このことは逆に、われわれの社会のエネルギー的基盤が非再生エネルギーに依拠する限り、究極的には「生態系の生産力」を超える“消費”がもたらす“資源枯渇”と「生態系の浄化能力」を超える“廃棄”がもたらす“環境汚染”が蓄積し、自然生態系の持つストックを減少させるということを示している。これらの議論に対する筆者の理解については、上柿(2015b)を参照。
(22)「予防原則」とは、想定される被害があまりに甚大である場合、科学的な因果関係が証明されていないということが、その対策を遅らせる理由になってはならないというものであり、長年の議論の末、1992年のリオデジャネイロ宣言に盛り込まれることになった。この原則に基づく対応が結果として大きな成功をおさめたのは、オゾン層の保護を目的としたモントリオール議定書である。
(23)その代表は、社会システムとエコシステムの相互作用をめぐる研究であり(マーティン 2005)、こうした“適応力/復元力”(resilience)をめぐる議論については、国内では、未曽有の大災害となった「3・11」以降さらに注目されるようになった(香坂 2012)。一連の議論に対する筆者の理解については、上柿(2015b)を参照。
(24)前述のように、経済成長や科学技術をめぐる「20世紀」的な前提が解体するにあたって、環境危機の存在はきわめて重要な役割を果たしてきた。その意味では“環境”をめぐる議論は、「21世紀」の枠組みを創造するうえで最も有利な立ち位置にあったと言えるだろう。しかし「成長の限界」から出発したはずの“持続可能性/サステイナビリティ”の概念は、今日ほとんど「持続的な経済成長」の補完物となりかけている。環境の現場では、今後ますます科学技術と経済成長の相互作用が話題となるはずである。われわれはここにも、「理念なき時代」の時代性を看取することができる。詳しくは上柿(2015b)を参照のこと。
(25)本書は【第十章】において、この問題を改めて〈無限の生〉の「世界観=人間観」という論点のもとで分析することになる。
(26)ヨナスの主張は、現代科学技術があまりに巨大な環境改変力を持つゆえに、人間の行為がもたらす未来の帰結が予測不能なものとなったこと、そしてそうした事態は、近代倫理学の依拠する人間の想定を完全に超えてしまったというものであった(ヨナス 2010)。なおヨナスはこの時点で、すでに遺伝子操作などに言及し、人間の外界を対象とした技術から人間それ自身が対象となる技術への移行について述べている。
(27)例えばヘロルド(2017)には、本書で言及したものに加えて、今後の世界で実現する可能性があるとみられる数多くの驚くべき技術が紹介されている。他にも類似の文献として、NHKスペシャル「NEXT WORLD」制作班(2015)を参照のこと。
(28)蓄積されるビッグデータの問題については、マイヤー=ショーンベルガー/クキエ(2013)、オニール(2018)に加え、前掲のヘロルド(2017)、NHKスペシャル「NEXT WORLD」制作班(2015)も参照のこと。
(29)吉田(2014)は、情報/メディアが生活世界に溶け込み、人間の生にとって自明の前提となることを「環境化」と表現した。
(30)ブレイン・マシン・インターフェイスについては、ヘロルド(2017)およびNHKスペシャル「NEXT WORLD」制作班(2015)、「不気味の谷」とアンドロイドの可能性については石黒(2015)を参照。人格のアーカイブ化については、2015年に米国のGoogle社がこのシステムの特許を取得し話題を呼んだ(「有名人や故人の人格をロボットにダウンロードする時代が来る?」『ITmedia NEWS』、2015年4月2日)。ロボディクスの現場を理解することができるものとして中嶋(2018)、また松尾(2015)では、今日の人工知能技術を支えるディープ・ラーニングの手法が丁寧に解説され、人工知能にできることとできないことが詳しく論じられている。
(31)今日の生命操作技術を躍進させたゲノム編集技術については、ダウドナ/スターンバーグ(2017)を参照。またアンテス(2016)にはペットのクローニングの実用化が、クルデル/バーンスタイン/イングラムほか(2018)には、「一から全ゲノムを書く」ことを含む合成生物学(synthetic biology)の可能性が言及されている。ゲノム診断については、試しに「ゲノム診断」「健康管理」のキーワードで検索してみれば、われわれは数多くの「商品」を見つけることができるだろう。デザインドチルドレンについてはノフラー(2017)を、不妊治療を含む生殖医療の社会的影響については柘植(2012)を参照。「若返り」を含む老化に対する「治療」の技術については、ヘロルド(2017)およびNHKスペシャル「NEXT WORLD」制作班(2015)、オキシトシンについては高橋(2014)を参照。同性婚による人工出生の事例はまだないが、現代社会の延長線上には、同性婚カップルが自らの遺伝子を残せないのは不平等であるという論理が成立する十分な素地がある。また関連するものとして、2018年11月、中国でゲノム編集を施した人間の乳児が誕生したことが話題となった。実験を指揮した教授はその後懲役3年の実刑判決を受けることになったが(「ゲノム編集ベビー、誕生させた中国の研究者に懲役3年」『日本経済新聞』、2019年12月30日)、注目すべきは、その研究の動機のひとつがエイズ患者であっても自身の血を引く健康な子どもを持つことができるためだとしていた点であるだろう。
(32)ここには近年の“持続可能性/サステイナビリティ”概念をめぐる議論において、社会工学的な発想がますます優勢になることへの皮肉が込められている。そこで懸命に論じられているのは、人間が“要素”や“ユーザー”に還元された「持続可能な社会システム」であって、こうした発想のみによって築かれる社会は、本書で描かれる「ディストピア」に限りなく親和性を持つものとなるだろう(上柿 2015b)。
(33)〈社会的装置〉によって現代人に与えられる財とサービス、そして「自由」と「平等」は、例えばわれわれがインターネット上で特定のウェブサービスの“システム”にログインし、“ユーザー”として与えられた権限を縦横に行使する姿と酷似している。本書における〈ユーザー〉概念については、【第五章:第三節】においても詳しい説明を行っている。
(34)実際、われわれは“貨幣”さえあれば、通信販売ですべての必要を満たし、「twitter」や「YouTube」で交流しながら、誰とも直接的、身体的に関わらずに生きていけるだろう。
(35)〈自己完結社会〉を動かしているのはひとりひとりの人間であるため、厳密にはわれわれは依然として他者の存在を必要としている。とはいえ人々が必要としているのは、あくまで〈社会的装置〉の“機能”であって、ひとりひとりの具体的な他者の存在ではない。それによって、ここでは存在論的に、あるいは心理的に、あたかも他者の存在が不要であるかのように見えるのである。本書では【第七章】において、〈自己存在〉や「意味のある私」が成立するためには、実際にはわれわれは〈他者存在〉や「意味のある〈関係性〉」を必要としている、ということについて見ていくことになるだろう。
(36)増田(2011、2015)を参照。この増田による指摘は、〈生の自己完結〉をめぐる筆者の着想においても、常にひとつの原点となってきた。
(37)今日「迷惑をかけない」という倫理は、家族を含む親密な関係性においても無造作に拡大している。2010年には「無縁社会」がキーワードとなったが(NHK「無縁社会プロジェクト」編 2010)、死に瀕してもなお「助けて」と声をあげることを拒絶する30代(NHKクローズアップ現代取材班編 2013)、俗に“終活”と呼ばれる終末期ビジネスに魅せられる高齢者(一条 2014)が口々にするのもこの倫理である。現代人は、誰にも迷惑をかけたくない代わりに、誰からの迷惑も受け入れたくない。この「不介入の倫理」をめぐっては、【第八章:第六節】において本格的な分析を行う。
(38)かつて宮台(2000)は、この現代的コミュニケーションにみられる極端な「拡散」と「収縮」を「仲間以外はみな風景」や「島宇宙化」といった形で表現した。しかし当時若者だった世代は、いまや社会を支える側となり、さらに若い世代においては「島宇宙」さえ形成されず、あたかも個人個人が「島宇宙化」しつつあるかのようにも見える。こうした論点については【第九章】でさらなる分析を試みる。
(39)この問題は、人間存在論としてきわめて重要な主題となる。例えば増田(2015)は、この「意のままにならない他者」といかに関わるのかということこそ人間存在の倫理の根幹にあったとし、また吉田(2012、2016)は、自己にとって「異質な他者」とは本質的に「暴力的」でありながら、他方でそれなしには自己は成立しえないという意味において同時に「救済」でもある、ということを「自己基底の他者原理」という形で整理している。本書では、この問題を【第四部】「「人間的〈関係性〉」の分析と〈共同〉の条件」において詳しく分析していくことになる。
(40)互いに「傷つけない、傷つかない」を徹底する関係性を、土井(2008)は皮肉を込めて「やさしい関係」と呼んだ。これに対して浅野(2013)は、それを「状況志向」と呼び、そこでは「多元化」した関係性をやりくりする高度な能力が発揮されているとして評価した。しかしそうした技法は所詮小手先であり、おそらく「意のままにならない他者」と真に向き合う際には何の役にも立たないだろう。増田(2015、2016)の表現を借りれば、他者と向き合うために必要な「共同関係の理」を身につけずに成長した現代人は、常時「むき出しの個人」として他者と対峙せねばならず、それゆえきわめて大きな困難に直面するのである。この増田の概念については【第六章】において再び言及する。
(41)ここには、手軽に“つながり”を生みだせる装置の存在が、ますます対面的なコミュニケーションの敷居を高めていくという逆説がある。例えば情報技術は、一方でわれわれに管理/コントロール可能な関係性を格段に拡大させたが(木村 2012)、他方ではリアルな人間関係が情報世界に複製されて二重化し、われわれは重苦しい人間関係を常時“携帯”しなければならなくなった(土井 2008)。これらの現象は異なるものであるように見えて、コミュニケーションの敷居を高めるという点では共通しているのである。
(42)『広辞苑』(2018)項目「自己実現」を参照。
(43)「自己実現」は「自分探し」(速水 2008)とも呼ばれ、80年代以降、とりわけ「個性化教育」(岩木 2004)が開始された90年代以降にひとつの時代の流行を形作った。「自己実現」は本書において繰り返し言及される重要な概念のひとつであり、その学術的な位置づけについては【補論二】を参照のこと。
(44)社会学にはアノミー(anomique)という概念があり、それはもっぱら近代社会の成立に伴って伝統的な規範が崩壊し、倫理規範が機能不全になる事態のことを指す場合が多い。しかしその概念を普及させたE・デュルケム(É. Durkheim)が「アノミー的自殺」(suicide anomique)と言う場合、そこにはもうひとつの含意がある。それは伝統的な規範の解体によって、欲望に歯止めがかからなくなった結果、肥大化した欲求が実現しないことに苦悩するがゆえに自殺に至るというニュアンスである(デュルケム 1985)。デュルケムの議論に〈生の自己完結化〉や〈生の脱身体化〉という問題意識は含まれていないが――それは彼の生きた時代を想起してみれば当然のことである――このもうひとつの含意については、後に本書の主題となる、〈無限の生〉による“挫折”という問題と重なる部分があると言える。
(45)2010年代に入ってから、火星への有人宇宙飛行や移住計画などがさまざまな形で言及されるようになっており、こうした想定は決して非現実的なものではなくなりつつある(ディヴィッド 2016、NHKスペシャル「NEXT WORLD」制作班 2015)。