ディスカッション



〈自己完結社会〉の成立(上)
上柿崇英著


〈自己完結社会〉の成立(下)
上柿崇英著

環境哲学と人間学の架橋(上柿崇英 
/尾関周二編)
環境哲学と人間学の架橋
上柿崇英/尾関周二編


研究会誌『現代人間学・
人間存在論研究』

   

用語解説

   

 「共同体=むら」(「伝統的共同体」) 【きょうどうたい=むら】


 「つまり共同体=「むら」は、ここでは〈自立した個人〉へと至る、より成熟した精神文化の育成を阻む桎梏、そして一連の悲劇を二度と起こさないためにも打ち破るべきものとして位置づけられていたのである。したがって、共同体=「むら」を「自由な個性」の埋没と規定し、その共同性を「同一性(同質性)」に見いだす理解は、こうした諸々の思想的背景のもとで形作られてきたと言うことができる。……(それにもかかわらず)確かに「むら」=共同体は、近代的な産業社会を批判するための対極的な足場として、しばしばあまりに牧歌主意的に捉えられてきた側面がある。そこでは散々“悪”の側に仕立てられてきた「むら」=共同体が、言ってみれば別の何かを“悪”として責め立てるために、今度は無理矢理“善”の側に仕立てられたとも言えるだろう。」 (上巻 252-253



 歴史的な発展法則を描いた史的唯物論を念頭に、前資本主義的社会類型としての“Gemeinde”を現実の村落社会に投影したもので、長年「牧歌主義的―弁証法的共同論」のなかでねじれた価値づけを付与されてきたもの。

 具体的には、「個性の埋没」という形で、〈自立した個人〉へと至る、より成熟した精神文化の育成を阻む桎梏として位置づけられる一方で、資本主義社会における諸問題を批判する際には、一転して、失われた人間本来の共同性を体現したものとして位置づけられる。

 逆に言えば、そこに体現された原初的な共同性を肯定的に捉えつつも、求められるべきは「共同体=むら」の“復活”ではなく、あくまで「自由な個性」と統合された新たな形態として共同性を“再構築”することであるとされ(「自由な個性と共同性の止揚」)、90年代から2000年代の「アソシエーション論」などにおいては、「共同体=むら」の「閉鎖性」、「同一性(画一性)」、「強制」、「個人の抑圧(全体主義)」に対して、アソシエーションの「開放性」、「多様性(複数性)」、「自発性」、「自由な個人による連帯」といった価値づけの強化が行われた。

 こうした価値づけが人間的現実や組織の実態と乖離している点は言うまでもないが、こうした矛盾は「共同体」と「コミュニティ」が本来同じ英語の“community”に相当するものであるにもかかわらず、しばしば区別して用いられていることにも現れている(「コミュニティ」は一般的に、地域社会の活性化というポジティブな文脈で用いられるため、「共同体」と書くと、前近代性などネガティブな印象が想起されることから、あえて片仮名で表記されている)。