【本文】


未来世界を哲学する―環境と資源・エネルギーの哲学)
未来世界を哲学する
環境と資源・エネルギーの哲学


〈自己完結社会〉の成立(上)
上柿崇英著


〈自己完結社会〉の成立(下)
上柿崇英著

環境哲学と人間学の架橋(上柿崇英 
/尾関周二編)
環境哲学と人間学の架橋
上柿崇英/尾関周二編


研究会誌『現代人間学・
人間存在論研究』

   

『〈自己完結社会〉の成立』(下巻)
【第五部】〈有限の生〉と〈無限の生〉


 われわれはこれまで〈自己完結社会〉の成立という未だかつてない事態を受けて、その意味を「人間とは何か」という最も根源的な問いにまで遡りながら論じてきた。
 そして新たな時代に相応しい人間理解の枠組みを求めて、実際に多くの基礎概念や理論的枠組みの整備を行ってきたと言える。【第五部】からは、これまでの議論をすべて総括する形で、いよいよ本書の結論へと向かっていくことにしたい。

 最初の課題となるのは、これまで三つのアプローチを通じて捉えてきた〈自己完結社会〉の成立過程を、今度は“日本社会”というわれわれが生きる具体的な場に即しながら論じていくことである。
 確かにこれまで本書では、〈自己完結社会〉へと至る過去の道筋について、さまざまな形で分析を試みてきたかもしれない。しかしそれらは、例えば「〈社会〉と〈人間〉の切断」や「〈ユーザー〉としての生」の成立といったように、いずれも抽象的な概念体系を用いて説明されるものであった。
 われわれの前に顕在化する〈自己完結社会〉は、あくまでわれわれに連なる人々が、この日本列島という同じ場を背に、それぞれの時代の要請と向き合い、〈生〉を実現させてきた帰結として出現したものである。
 われわれが自身の現実と対峙していくためには、われわれはこうした社会に宿る時代の履歴と、それぞれの時代に生きた人々の思いに触れ、それらを「意味のある過去」という形で自らにつなぎとめていく必要があるだろう。そうしていわば「生きた地平」に立つことによってはじめて、われわれは真に現実と対峙していく力を得ることができるように思われるのである。

 【第九章】「〈自己完結社会〉の成立と〈生活世界〉の構造転換」では、こうした問題意識を受けて、日本社会が今日に至るまでの150年あまりの期間を、便宜上「第一期:近代国家日本の成立から敗戦まで(1868年‐1945年)」、「第二期:戦後復興から高度経済成長期まで(1945年‐1970年)」、「第三期:高度消費社会の隆盛からバブル崩壊まで(1970年‐1995年)」、「第四期:情報化とグローバル化の進展まで(1995年‐2010年)」、「第五期:いまわれわれが立っている地点(2010年‐)」という形に区分し、それぞれの時代の特徴と、人々が直面していた時代の情景について見ていきたい。
 そしてそうした時代の変遷のなかで、〈生活世界〉の構造転換がいかなる形で進行したのかについて詳しく見ていくことにしよう。それは〈社会的装置〉が自立化し、人々がその〈ユーザー〉となっていくなかで、かつての重厚な〈生活世界〉と〈共同〉のための人間的基盤が空洞化していく具体的な過程のことである。

 まず「第一期」の日本社会は、構造転換へと至るための土台が整えられた時代であった。というのもこの時代に、「官僚機構」や「市場経済」といった〈社会的装置〉の最初の構成要素が整備されたと言えるからである。
 とはいえ〈生活世界〉の実態から見れば、その影響はきわめて限定的なものに過ぎなかった。都市部で花開いた大衆社会や新しい生活様式とは裏腹に、圧倒的多数の人々の前には、依然として古い時代から続く濃密な〈生活世界〉、そしてむせ返るような生々しい〈共同〉の現実が広がっていたからである。

 続いてわれわれは、「第二期」が、構造転換の“過渡期”に相当する時代であったことについて見ていく。
 戦後の改革と復興の時代を経て、日本社会は高度成長の時代へと移りつつあった。多くの人々が大挙して都市部へと移動し、社会全体に“豊かさ”が拡大しつつあった。そうしたなか、確かに「〈共同〉のための事実」は浸食され、農村部では生活組織の形骸化が進んでいただろう。
 それでも全社会的に見れば、〈共同〉のための人間的基盤は、未だ〈故郷〉の記憶を共有する人々の間で存続していたのである。われわれはこの過渡期に生きた人々のことを、象徴的に〈旅人〉と呼ぶことにしよう。それは〈故郷〉を離れて理想に邁進した人々が、あたかも「母港」を背に、大いなる「目的地」へと「航海」を続ける“旅人”のようであったからである。
 そしてわれわれは、彼らの理想主義が〈社会的装置〉と〈生活世界〉の二重性という、過渡期ゆえの特異な条件によって支えられたものだったということについても見ておきたい。

 これに対して、本格的な構造転換が進んだのは「第三期」の時代であった。われわれはそこで、この時代に急速に拡大していった〈郊外〉という社会空間について着目しよう。
 というのもこの〈郊外〉こそ、隆盛していく〈社会的装置〉の“付属物”として形作られ、それゆえ〈存在の連なり〉から本質的に浮遊した社会空間であったこと、そしてそれが住民相互の〈共同〉をはじめから想定していない――つまり「〈共同〉のための事実」が成立しない――きわめて異質な地域社会として成立したものだったと言えるからである。
 だが、古い時代を知る人々にとっては、そうした新たな〈生〉の形こそ、便利で清潔、プライベートが確保されうる夢の舞台であった。こうしてかつての〈旅人〉たちが、今度は大挙して〈郊外〉に「定住」していく。そして〈社会的装置〉にぶら下がる〈ユーザー〉となっていくのである。

 続く「第四期」は、構造転換が更なる段階へと進んだ時代であった。
 そこでは「情報世界」という新たな〈社会的装置〉の構成要素が成立するとともに、〈郊外〉特有の浮遊性が全社会的に拡大していった。そうしたなかで、およそ地域社会と呼べるものが実質的な意味を失っていったのもこの時代であった。
 ここでわれわれは、〈郊外〉において生まれ育った新たな世代のことを〈漂流人〉と呼ぶことにしたい。それは彼らが〈旅人〉とは対照的に、あたかも帰るべき「母港」も、向かうべき「目的地」も、あるいは自身の立ち位置を知るための「羅針盤」さえも失った、漂泊船のごとき存在に見えるからである。
 〈存在の連なり〉から浮遊した〈ユーザー〉たちは、〈郊外〉を舞台に、「〈共同〉のための意味」も「〈共同〉のための技能」も受け継がれることなく、また〈役割〉も〈信頼〉も持たないままに成長する。
 そしてわれわれは、そうした人々が「かけがえのないこの私」という自意識を抱え、自己存在への過剰な期待と、それとは裏腹の根源的な不信感とによって引き裂かれ、「諦め」の感情を募らせていく様子について見ていこう。

 続いてわれわれは、その先にあるものとして、今日のわれわれが生きる時代である「第五期」について改めて見ていく。それはまさに情報技術、ロボット/人工知能技術、生命操作技術の拡大によって、〈自己完結社会〉が台頭していく時代である。
 そこでは成長した〈漂流人〉たちが年を重ね、彼らによって生み育てられた、いわば〈漂流人〉の第二世代が成人を迎えることになる。われわれはそこで、「不介入の倫理」によって人間関係を乗り切ろうとして、すでにその試みに挫折しつつあるわれわれの姿について改めて見ていこう。
 使用可能な〈間柄〉に欠乏し、〈役割〉も〈信頼〉も、そして〈許し〉さえも失ったわれわれは、こうしてときおり迫り来る〈共同〉の必要に怯え、その重圧に苦しむことになる。「意のままになる他者」を希求し、「自分だけの世界」に自閉する人々は、こうして再び「意のままにならない現実」とのあいだで引き裂かれていくことになるのである。

 はたしてわれわれは、この150年におよぶ日本社会の構造転換から何を読み取ることができるのだろうか。
 われわれはそこから、時代に生まれ、時代に生き、そして時代に裏切られていく人間存在の残酷さ、そしてそうした残酷さを引き受けなければならないわれわれ自身の問題について考えていく。
 そしてそれぞれの時代に人々が抱いた理想と、「第四期」以降の「諦め」とをめぐる問題にいて触れた後、「戦後思想」そのものの問題点、とりわけ「第三期」以降の時代に、われわれが〈自立した個人〉に代わる人間の思想をついに構築できなかった問題についても考察したい。

 続いて【第十章】「最終考察――人間の未来と〈有限の生〉」からは、われわれが〈自己完結社会〉の成立という時代の現実に対して、いかにして向き合っていくことができるのか、その手がかりとなるものについて考えていく。
 ここで最初に導入するのは――【序論】で見た「現代人間学」の第三原則にもあったように――「世界観=人間観」という視点についてである。「世界観=人間観」とは、われわれが世界や他者と対峙する際、あらかじめ獲得している根源的な理解の枠組みのことを指している。
 そしてその視点を導入する目的は、〈自己完結社会〉を背後で支え、それを促進しているひとつの「世界観=人間観」に焦点をあてるためである。それは「意のままになる生」こそが人間のあるべき姿であると考え、また人間の使命とは、それを阻む「意のままにならない生」を克服していくことであると考える、〈無限の生〉の「世界観=人間観」に他ならない。

 この視点を得ることによって、われわれは〈自己完結社会〉のひとつの本質、換言すれば〈生の自己完結化〉と〈生の脱身体化〉の根源的な接点について、改めて理解することができるようになる。
 すなわち〈生の自己完結化〉が「意のままにならない他者」からの解放を意味し、〈生の脱身体化〉が「意のままにならない身体」からの解放を意味するように、それらはいずれも“他者”や“身体”といった、これまで人間が決して逃れることのできなかった〈生〉の前提の解体を意味すること、しかしそれらは〈無限の生〉の理想から見れば、むしろ「意のままになる生」という、人間存在の“あるべき形”が着実に実現していく過程を意味するということである。
 われわれは【第一中間考察】において、〈自己完結社会〉がある面においては人間の本性や人類史の展開過程と連続していることについて見てきた。しかしそうした帰結を決定づけ、後戻りできないものにしているものこそ、この〈無限の生〉の「世界観=人間観」だと言えるのである。

 ただしこうした〈無限の生〉の理想は、古い時代の人々にとっては決して一般的なものではなかった。われわれはそこで、その原型を生みだしたものこそ西洋近代哲学であるということについて確認しよう。
 注目したいのは、〈自立した個人〉の思想の原型となった「自由の人間学」、そしてそこに内在していた「時空間的自立性」と「約束された本来性」という特異な人間理解についてである。
 われわれはそこで、こうした人間理解が「政治的自由」の枠組みをこえて「存在論的自由」へと拡張されたとき、まさしく〈無限の生〉へと続く扉が開かれたのだということについて見ていく。そしてその人間理解の起源には、ルネッサンス期のキリスト教的な「世界観=人間観」が深く関わっていたことについても確認しておきたい。

 続いてわれわれは、この〈無限の生〉の「世界観=人間観」が、なぜ人々に苦しみをもたらすのかについて考察を進めよう。
 手がかりとなるのは、それが「現実に寄り添う理想」ではなく、本質的に「現実を否定する理想」であること、端的には、現実の外部に“価値理念”という形で「あるべき人間」を設定し、それによって絶えず生身の人間的現実を否定しなければならない構造を含んでいるということである。
 実は“自由”、“平等”、“自律”、“共生”といった近代的価値理念の多くには、いずれもこうした構造が内在している。例えばひとつの「不自由」を取り除けば、われわれはその度に新しい「不自由」を「発見」する、といったようにである。そしてその道のりは、決して終わることがない。
 それはこの理想の根底にあるものが、究極的には一切の「不自由」が存在しない「完全な人間」をめぐる物語であるからなのである。

 加えてわれわれは、こうした「無間地獄」とも言える構造が、いまや現代的なわれわれの〈生〉の全域にまで拡大しつつあるということについても見ていきたい。
 注目したいのは、〈自己完結社会〉の進展にしたがい、「意のままになる生」の理想が、人類の問題から個人の問題へと、また手の届かない彼岸の問題から、手が届きうる現実の問題へと変質していったことである。
 実際今日のわれわれは、“自由選択”や“自己決定”という形で、「意のままになる生」がますます拡大していく現実を目の当たりにしていると言える。象徴的な表現を用いれば、われわれはいつしか「意のままになる生」こそが「正常」であり、「意のままにならない生」など「非正常」であるかのような世界を生きつつあるのである。
 そしてそのことが、実はわれわれ自身を苦しめている。なぜなら、われわれが人間である限り、「意のままにならない生」の現実から逃れることなど不可能であること、それにもかかわらず、〈無限の生〉の理想は、そうした人間的現実を直視することを許さないからである。
 われわれはここで、〈自立した個人〉の挫折も、「自己実現」の挫折も、あるいは〈間柄〉なき〈関係性〉の挫折も、負担なき〈共同〉の挫折も、苦しみの構造は皆同じであるということについて確認したい。
 そこにあるのは、〈無限の生〉が要求する人間的理想と、われわれが直面する人間的現実との間に生じたとてつもない乖離であり、両者の間でわれわれ自身が引き裂かれている姿なのである。

 だが、ここでわれわれは敢えてひとつの思考実験を試みたい。それはわれわれの苦しみの根源が、仮にこうした理想と現実の乖離にあるとするなら、進展し続ける科学技術によって「意のままにならない生」が完膚なきまでに解体されてしまったとき、そこで何が起きるのかという問題である。
 われわれはそこで、【第一章】で見た“人間の未来”に関するシナリオ、すなわち〈生の自己完結化〉と〈生の脱身体化〉が極限的に進んだ世界について再考してみよう。
 例えばそれは、遺伝子操作が実現する「究極的な平等社会」、あるいは身体を完全に捨て去った「脳人間」の世界や、「自殺の権利」が制度化された社会といったものである。
 そしてそうした究極の「ユートピア」においては、完璧なる「意のままになる生」によって、確かに「意のままにならない生」は制圧され、われわれは苦しみから解放されうるということ、しかしそのためには、われわれ自身が人間であることを文字通り捨て去らなければならないということについて確認することにしたい。

 こうしてわれわれは、いよいよ本書の結論へと向かっていく。それは一言で述べれば、〈有限の生〉とともに生きるということである。
 われわれ人間には、人間である限り決して逃れられない何かがある。ここではそれを〈有限の生〉の五つの原則――「生物存在の原則」、「生受の条件の原則」、「意のままにならない他者の原則」、「人間の〈悪〉とわざわいの原則」、「不確実な未来の原則」――という形で整理しよう。
 〈有限の生〉を生きるためには、われわれは確かに、ある面では人間が生きることの哀苦や残酷さといったものを受け入れなければならない。しかし人生に意味があるとするなら、それはこうした〈有限の生〉との対峙によってこそ導出されるものである。
 われわれが真に必要としているのは、こうした「意のままにならない生」を引き受けてもなお、より良き〈生〉を希求していくことの意味、そしてその道に至るための“術”だと言えるのである。

 そして本書では最後に、この哀苦と残酷さに満ちた世界を生きることの救い、すなわち人間の〈救い〉というものについて、またより良き〈生〉を希求する人々にとっての「美しく生きたい」という願い、すなわち人間の〈美〉というものについて考察しよう。
 われわれはここで、人間存在が「意のままにならない世界」のもと、「意のままにならない他者」とともに生きることを了解していく、〈世界了解〉の概念を導入する。
 そしてこの〈世界了解〉というものが、人間存在の〈救い〉や〈美〉をめぐる問題に対していかなる意味を投げかけるのか、またわれわれは、いかにしてこの〈世界了解〉を成し遂げることができるのか、ということについて考えてみたい。


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